文は、一見、だーーっと文字だけしかないのが、いつも、いやー、これでは文字だけだし、さすがに、誰も読まないだろうなあと、いつも思う。でも、それでもそこを見越して読む人もいることはいるのは確かなのらしい。それを言ったら、絵だってそうで、一見、だーっと絵でしかないのに、よくそんなものを見ますね?と言いたくなるが、それでも、それを見るひとは小数ながらも存在する。この、一見それでしかないものの、それでしかなさというのは、いったいどうすればいいのか?ということは、それこそ昔から誰もが考えていることなのだろうが、考えれば考えるほど、それを考えた人ほど、そのことに対しては、慎ましくなる。そのことに対して、かつて、たくさんの人々が、同じように考えたということだけがわかる。それだから、まったくの砂漠のように孤独な場所にいるのに、なぜか、ある種の慎ましさがうまれる。そして、問題はなおも、いつまでも解決しない。


細野晴臣の「泰安洋行」を聴いていた。これはまさに、とてつもなく、凄い仕事なのだが、これって逆に、当時の日本の情況をあらわすような音楽なのだと思う。つまり、当時このレベルでは通常輸入されていませんでしたということをあらわすような、そういう指標みたいな、そういう意味に従属する音楽に、どうしてもなってしまう。日本である以上、絶対にこれ以上自由には、どう再生しても鳴りません、みたいな。そしてそれで自他共に満足げ、みたいな。単なる憧れを、単なる憧れにしておけないのはなぜなんだろう、みたいな。アフリカン・アメリカンは、白人女性とエレベーターに同室すると、白人女性は、すっとハンドバックを抱えて、身を固くしているみたいな、たぶんそれは、日本人である以上、どうしたって、関税自主権とかとは別の、ある種の自主権を勝ち取れないから、でもだから、話を戻すならば、あなたは、一見だーっと、あなたでしかないし、ああ、君は、どうみても、やっぱり君だったね。そして僕も、やっぱり僕だった。サンキュー。みたいな、だから、くりかえせば、君は、やっぱり、君だった。


でかけたのが、午後過ぎ。清澄白河東京都現代美術館で「フランシス・アリス GIBRALTAR FOCUS ジブラルタル海峡編」を観る。個人的には、船のやつが最高だ。船。なんであんなに、船とは、ぷかぷか浮かんでいるのか。そして船は、乗ってる人がオールで漕げば、すーっと進むのだ。船は、人間の、生まれてはじめての、居場所なのではないかと思った。船は、ただ言われた通りに進んで、並ぶのだ。言われるがままだ。なんと、可愛らしく従順なのだろうか。犬やネコと、なにも変わらないではないか。・・・というのは、だから要するに、僕は、水に船が浮かんでいるのを見ているのがすきなのだと思った。船はいい。集まってくるのもいいけど、離れて、拡散して、ちりぢりばらばらになっていくさまも、すごくいい。船なあ。ほんとうにいいものだ。人類にとって船ほどの発明品はないかもしれない。


北千住に戻ってきたら、パニック状態見たいな人ごみだったので、花火見物は中止にして、家に戻ってごはん。足立区の地元放送を見ながら食事して過ごす。