屋形船と幽霊船

屋形船が魅力的なのは、たぶん屋形船に乗って飲み食いをすることの魅力というよりも、その船の上で人々が宴会をやってる、舟の上だけがまるで火で照らされてるみたいに明るくて騒々しくて、しかしその船が浮かぶ水の上は、夜の闇と同化してあくまでも暗くて、そんな闇の景色に、その船だけ異世界のように明るく賑やかで、それがゆっくりと水面を進み、だんだん遠ざかり、やがて小さな光の点になってしまうのを、ぼんやりと橋の上から見下ろしてるみたいな、そういう景色全体の良さとして魅力的なのだろう。繁華街とか人間が集うお祭りの様子を、遠目に見つめている、夜の中で、唯一そこだけが明るくて楽しい、それ以外は闇の地獄だ。あるいは明るくて楽しくていつまでも終わってほしくない享楽の時間は、はじめから限定されていて、夜の闇にはじめから線引きされた枠があって、その内側だけで遊んでいるから、むしろそれがかえって助かる、この夜がいつか確実に終わることを誰もが知ってるから安心できる。屋形船も必ずどこかの発着場に辿りつく。船を下りたら、もう遊びはおしまいだ。だからこそ楽しい。フェリーニの映画みたいに。
幽霊船は、怖いものだろうか。子供の頃、幽霊船の話を、さほど怖いとは思わなかったかもしれない。怖いのはやはり家だった。恐怖や不安は、ある場所、動かざる拠点、こちらが意図せずして迷い込み導かれてしまう場所に対して宿るものだった。自ら移動する、しかも乗り物に対して、そのようには思わなかった。船はたしかに、乗り物というだけではなくて、住まいや寝床といった拠点の要素もあるのだが、だからこそ、乗り物であり拠点でもあるような両義性が、恐怖や不安の宿る余地を失くしてしまうように感じられたのだ。

手賀大橋から手賀沼を見下ろしながら、そんなことを考えていた。