妻は昨日から、世界陸上テレビ観戦用の非常体制に入っており、適度に仮眠を取りながらひたすらテレビの前にいるだけの状態である。僕は終日、けっこうひまなので、こうしてだらだらとした休日もいいもんだとも思う。僕はあまり、スポーツ観戦に興味がないので、やってれば観るけど、観たいとは思ってないので、昨日も今日も家の中をふらふらしているだけだ。で、午後のいい時間になったら、夕食の買い物に出る。適当に買って帰る。空が急にがらがらと鳴って、途中で雨に降られる。それだけのことだ。


しかし、前にも書いたかもしれないけど、やっぱり今回もそうだけど、ウサイン・ボルトの顔を見るたびに、僕はジミ・ヘンドリックスを思うのだ。ボルトの目線を見ていると、いつも僕はそう思うのだ。ボルトの目線は、ジミ・ヘンドリックスの目線そのものだ。ボルトの目線の先に何が映っているのか、それはわからないが、でももしかしたら、それは40年前の映像に残された、ジミ・ヘンドリックスの視線の先に映っているものと、もしかしたら同じものなのではないかと、つい思ってしまうのだ。いまや世界的な有名人だという、ウサイン・ボルトという二十代の黒人青年の、彼の表情や仕草が、そのまま、ジミ・ヘンドリックスのインタビュー映像に見えるのだ。もちろんジミ・ヘンドリックスも、40年前は世界的な有名人だった。でもそのことにはまったく何の関係もない。言うまでもないけど、ウサイン・ボルトと、ジミ・ヘンドリックスには、まったく何の関係もないし、その二つの固有名詞を並べることの意味もない。そこには何の、論理的な解釈の余地も理由もなくて、そこには単に、僕の、ウサイン・ボルトの、ぽやーんとしたときの、その表情が、ジミ・ヘンドリックスを思わせるから、という、僕の、個人的な勝手な、思い込みに拠る理由だけのことなのだが、でも、それでだから、僕にとって、ウサイン・ボルトの映像を観るときにはいつも、奇妙な懐かしさが、そこに伴うのだ。ウサイン・ボルトの今の状態とか、今の世間的な栄華・栄光とか、今抱えている問題とか、そういうのはもちろん全然知らなくて、でもウサイン・ボルトに、もっとぐっと、もっと行けよと云いたい。もっともっと、平然と踏み越えてしまえよ。70年代のたったの一年足らずだったジミ・ヘンドリックスの、その時間の場所に来いよ、その先まで、その後の十年と二十年分まで、満たしてしまえよと、勢いよく云いたく思ってしまう。これはほんとうに、単に人の顔つきを見て思ってる事の話に過ぎないのだけど、でも見るたびに思うのだから、書かないとしょうがない。


再来週に少し夏季休暇をとるのだが、今年は旅行の予定はない替わりに、レストランの予約はたてつづけに入れてみた。こういうのは面白いかもしれないだろう。再来週は良くて、来週をどうするか今検討中。