渋谷陽一


渋谷陽一といえば、新潮文庫の「ロック ベスト・アルバム・セレクション」1988年刊。高校生のとき、今はもう影も形もない三鷹駅前の本屋で、予備校に行く前だったか、後だったか、立ち寄って買ったのを、今でもなぜかまざまざとおぼえている。今の三鷹駅前の様子と、三十年前のあの駅前が、同じ場所とはとても思えない。実はあの駅前は、今でもまだどこかに実在しているのではないかとさえ思う。

渋谷陽一の文章には独特なものがある。かなり短いセンテンスで、あえて乱暴かつ大雑把に断定で決めてしまい、そのことで後からにじみ出てくる、良い意味にも悪い意味にも作用するような違和感というかある種の余韻までを、読み手に伝えようとする感じの文章だと思う。たとえば前述の本に出てくる『「ウッドストック」オリジナル・サウンド・トラック』の紹介文の最後の段落は以下の通りだ。

 しかしなんといってもこのコンサートのハイライトであり、このアルバムの最高の演奏はジミ・ヘンドリックスの"アメリカ国家/スター・スパングルド・バナー" "紫の煙"だろう。一時期の熱狂がさめ、ゴミの舞いあがる会場に登場した彼は、それまでの誰よりも素晴らしい演奏をくり広げた。

「誰よりも素晴らしい演奏をくり広げた」と断定してしまっていることに、当時の自分は、かなり驚いた記憶がある。少なくともこの手のレコード紹介本であるならば、ふつうなら避ける言い方ではないか、とも思われる。誰よりも素晴らしいと、いったい何の根拠をもって断定しているのか、それこそ主観ではないか、との反論を想定するのは容易なことで、もちろんそれも見越したうえで、あえてそう言っている。そのことまでを読み手に伝えてくる、それに驚いたのだ。

つまりここでのジミ・ヘンドリックスは、演奏の良し悪しを判断する規定となる部分を越えてしまっている、ということが言われているのだと思う。そして渋谷陽一的には、それこそが批評性、ということになるのだと思われる。ウッドストックフェスティバルにおいて、誰よりも突出して批評的だったのがジミ・ヘンドリックスだった、そのことを指して、じつに乱暴で単純に「誰よりも素晴らしい演奏をくり広げた」と、あえて言ってしまう。

渋谷陽一の文章を読むとは、こういう言い方にずっと付き合い続けるということを示す。それは自分のすごく若い頃の記憶に今でも根付いている感じがする。