書くのは一日か二日休んでるだけだと思っていたら、こんなに書いてないとは思ってなかった。13日のことは忘れた。14日は中華。15日はホルモン、16日は魚貝系のちょっと古めかしい料理を食べた。それで連日、酔って帰ってきて、すぐ寝てしまっていた。今日明日はふつうに過ごして、今日は少し、久々に水泳などもして体調を整えて、また来週から少し外食が続く。むしろ来週後半が本番なので、とにかく体調管理が肝心だ。あとモチベーション維持もけっこう重要だ。連日たくさん食べていると、さすがに夜になっても、あまりおなかが空いてこなくなってしまう。だから日中は、ほとんど食べない感じで過ごした方がいいのだが、もともと日中はふだんからほとんど食べてなくて、平日だと朝食を食べる習慣もないし昼食もきわめて少なくしか食べないので、それ以上食べないのは難しい。でも、それでも腹が減らないのは困るので、だとすれば運動しかない。今日は久々に水泳に行ったが、行く前に立ち食いのそばを食べた。立ち食いのそばはそんなに大きな声でうまいとかいうようなものではないのだが、しかしそれがうまいことは間違いなくて、つまりこれは、あの部分がうまいとかここがいいとか、感想を一々言うようなことではないのだけど、食べ終わって、また明日も来週も、同じ時間にざっと食べたいと思うような、そんな風にして食べているのがあたりまえのような気持ちになってしまう、そういうのが一番うまい、ということだろうから、簡単な即席のソバみたいなものと、ごく一般的な料理と、うまいということの質が違う。第一、この炎天下に歩いてソバ屋まで行って、冷房などない外にむき出しの立ち食いカウンターに立って、熱いそばを食ったら、全身が水をかぶったように汗をかくに決まっていて、うまいもまずいもないのだが、その後プールに行くのだからまったく問題ないし、ベタベタの服を脱いで水着に着替えたらまるで小学生のような気分だ。とはいえ、土日じゃないとそんな風には水泳に行くわけにも行かない。ソバ屋にだって平日はぜんぜん行かない。行きたいと思うような立ち食いのソバ屋は家の近所か台東千代田ばかりで、横浜周辺にはほとんどない。横浜は横浜の店があるということで、14日の中華については、誘った友人が15日じゃないとダメだというので、仕方なく一人で行ったのだが、あらためて思ったのは、中華街の料理は一人で行っても、どんなに頑張っても、せいぜい二皿程度しか食べられないということで、どんなにおいしくても、一皿の量がやはり一人に対してでは多すぎるし、おいしいと言ってもそればかり食いながら紹興酒をあおっていても、飽きてくるし量が多くてげんなりしてきて、でもせっかく来たのにさすがにそれだけで終わる気にもなれずよせばいいのにもう一皿とって、もちろん二皿目もおいしいのだけど、やはり大量なので、うんざりを通り越して苦しみに近くなってきて、結局死ぬほど腹がふくれた状態でよろよろと店を後にするしかなくなってしまって、だから中華を食うならやはり、二人、いや最低三人はいないと、色々な皿を思い思いに取り分けて各自楽しむ、というわけには行かない分、厳しいものだと痛感する。それにくらべるとホルモンなんていうものは楽なもので、前日連絡した友人が、ホルモンがいいと言うからそうしたのだが、僕も友人も、じつはホルモンなんて普段それほど頻繁に食べる訳でもなく、こうして来てみたら、ホルモン屋に二人で来たのがじつに珍しいというところだった。でもホルモンが簡単なのは、もう食べるのが嫌になったらいつでもやめていいというところで、実際に油っぽくていつまでも食べていられるようなものではなく、そのぶん手軽で簡単な時間になってしまうので、そのあと焼き鳥屋でも立ち飲みやでも簡単に流れてしまえるのは良いと言えば良いが、そもそも、肉を焼くというのは定期的にしたくなるような不思議なもので、あの火や炭を直接触れて口に運ぶこと自体を厭う気はなく、それこそたまに川ベリで花火をしたくなるようなものかとも思う。それで翌16日の日中はあまり空腹感をおぼえずこの後まともにモノが腹に収まるのかという不安もあったのだが、夜になったらさすがになんとなく食べる準備ができてくるものらしく、妻がずいぶんオールドファッションな格好をしてやってきて、それがその日に行った店の内装調度と示し合わせたかのように釣りあったのが面白かった。酢漬けから始まって魚、肉と続く一昔前のディナーといった体の時間で、じつに昔ながらの、油、バター、塩、ソースが胃と肝臓を直撃するような、容赦なくこってりとしたもので、それでまずは何か飲めば、あとは最初の一皿目から、ふつうに食べはじめながら、楽な姿勢に乗ったまま溺れるように時間に流れていく。しかしなぜこうして、そのときそのときの場所で、何かを食べたいと思うのか、というところだが、僕もそれなりにこれら一連のことに、何かを賭けているいったら大げさだが、しかし一連の試行で何かを掴もうとしているというのか、そこには今後の自分達についての考察も含むのかもしれない。まったく非具体的な、思いつきの話かもしれないが、僕たち私たちはこうして、結婚以来、何十年かかけてずっと遊んで暮らしたと言う、そういう事としてこれら一つ一つを考えることがある。我々なりの、働きかけが、良ければ良いで、ダメならダメで、また来たり、もう近づかないとか、そういうことでも、あるかもしれない。我々は…我々とは、僕や友人達や妻のことだが、我々は皆、それぞれが、それぞれ手をつなぎ合いながらこれからも一緒かもしれないが、しかしそれと同時に、今までもこれからも、ずっと孤独であり続ける。そんな我々の、そのままこうして毅然と遊んで暮らすために、そのこととして、それらの店に行ったり、また週末集まったりする。僕も、何事においても、続けることの重要さはわかっているつもりで、そのための考えを忘れずにしないと行けないという、そういうことの一環としてとの思いもある。変化をおそれずに受け入れていく事と、ずっと変わらずに継続することを両方成立させる事のために、色々と読んだり見たり経験を重ねる。それを躊躇しないことだとの思いもある。しかしよくわからない部分もある。間違っているかもしれない。