ゴダールのことはよく知らないのだけれど、でも、まったく知らないわけでもなく、この中途半端さが、自分がゴダールに対して微妙に距離を置きたくなる最大の理由である。まったく知らないわけでもない、というのは、少しは知ってる、わかってる、という風に、自分がそう思っていて、実際は、まったく知らないのかもしれないが、いずれにせよ、なんか鬱陶しくて、ゴダールの作品を見始めると、ああ、この感じ、というのが、たぶんいくつか引っ掛かってきて、それがもう、自分のなかでは、既にダメで、それが、自然に受け入れられなくなる。外野で色々言われてる声の方が、大きく聴こえてくるというのもあるし、そうじゃなくても、もうさんざん語られてきた部分を僕がいまさら見ているのね、という思いもある。要するに、実際には何も見れてない状態になってしまう。そうなりがちであるということで、だから、面倒くさくてあまりみてないのだけど、今日は、ちょっと気が向いたので、DVDで「勝手に逃げろ/人生」をみる。そしたら、これがかなりいい感じで、すごく効いて、超・面白かった。これはまた、近いうちにもう一回みよう。まあ、第三章にあたる?部分の、娼婦が変態おじさんとプレイするあたりは、まあ…なんというか、まあいいけど、みたいな感じではあったど、でもまあ、基本笑えて、軽快で、すいすいと事の運ぶ、しなやかなさわやかな、じつに気持ちの良いもので、また今日はこうして、僕もこの作品の眼差しというか、この作品が見つめているものに対して、こちらもじっくりと付き合った、という満足感もあった。


ナタリー・バイの、時たまにカクカクと静止させられつつも、その髪が風に揺らぐさまや、俯いたときの顔に翳る陰翳や、なによりもその表情。窓の外から入ってくる柔らかい自然光のうつくしさ。ゴダール的な人物の、話し終わったあとに、相手の話を聞いてるときの表情や、話題が別の拠点に移ってしまったあとの、ぼーっとしているときの表情や、とにかく「自分の出番」じゃないときの、別の情況を耳にしていながら、まったく別のことをしているか、あるいは何もしていないか、そんな手持ち無沙汰な、うつむいて無意識で、視線もきょろきょろしていて、煙草も吸ったりやめたり、なんだかなんでもないような、延々続くそういう時間の、これが、とくにナタリー・バイは、ほんとうに良かった。ナタリー・バイ。ゴダールだと、なぜこんなに、カクカクさせられてしまうのか、でも自転車もそうだし、ふつうにしていてくれるだけでじつに素晴らしい。ジャック・デュトロンも素晴らしい。とにかく、顔を映しているときは、顔以外のところで、何かが動いていて、何かが進行中なのだが、画面を見ているものは、その顔しか見ていないので、その顔から、じゃあ何かを読み取るのか?と言ったら、それもまったくそうではなくて、顔は単に顔で、しかし顔であるからには、何がしかを感じさせてはいるのだが、でもそれはその周囲の出来事だの、映画的な物語だのとは、どうもまったく無関係に、顔がただ顔であるだけといった按配で、ただひたすらどこかを見たりしながら、煙草を吸ったりしてるだけだ。この顔の、この顔のひたすらな感じというのは…。


何か別に、ものすごいものが写ってることも全然なくて、ほんとうに、顔ばっかりで、特に娼婦のイザベル・ユペールなど、身体に何をされているのかはみえないけど、実に涼しげな顔で窓の外を見ていたり、なんというか、何が起きているのか、身体がむずがゆくなるような、ある歯がゆささえ感じる。直接的なショックの必ず一歩前に全てが揃ってくる感じというのか。


音楽も、まさにゴダール的な、ビタッと停止させられてしまうショック的な感じよりも、あらためて聴いていると、異なる曲がクロスして繋げられるような瞬間の方に新鮮さを感じる。何しろどんな音楽的瞬間も、意識が張り巡らされていることを感じているので、逆に、スムーズに流れていくようなところに妙な引っ掛かりを感じたりもする。


まあ、またいつか再見しましょう。


見終わって、正午前だったので、昼食にでかけて、帰ってきてしばらくして、次にゴダールの「探偵」を見はじめたのだけど、五分したら寝てしまい、しばらくして起きて、夕方出かけて、神田でごはんを食べて、さっきまた帰ってきた。昼食のときに、舌を噛んだ。これが、問題なくすっと直ってくれると嬉しいのだが・・・。