思い出すと北千住から日比谷線で広尾、有栖川宮記念公園の図書館に少しいたあと、山本現代に寄って、そのあとタモリ倶楽部で出てきた坂道に行って(妻が行ったので僕も行ったけどどのことだかわからない。)そのあと、善福寺のイチョウの古樹をみた。麻布十番から電車で小川町に行って、どこかの本屋で、大竹伸朗のビ、という本があった。そのビ、というのが面白いなあと思って、大竹伸朗の、そういう感覚をいまさら面白いとか思うのが遅くないか、とも思ったが、でもまあそんなものだろうと思って、そう。ビ、だなあと思って、ビ、そのカタカナが、まさにするどいよなあと思う。でもその本(ビ [単行本])は買わなかったし内容もわからない。ビ、の問題。それはある。宗教でいえば愛とか、日本に急速に輸入されて、愛はなかなか馴染まず、ゼウスさまのご大切、とか、そういう言葉になったとか。そう、ご大切。というと、まだ自分とほかとの、どっちに重点があるのかが、曖昧で、そこが辛くて、面白い。汝を愛するが如く隣人を愛せ、という自と他の峻別が、いまだに難しい。


ビ、すなわち女、みたいな、たとえばそういう映画で、それだと大抵ダメなのだが、でもビ、とカタカナにするとか、何かしら考えないと、というのはある。ビの場合、最低限、すくなくとも絵空事ではない、というのだけは保証されているので、それがつまらなくても、それは確かに実際にはある、と担保がある。そうか、ビは担保があるからビか。 であれば、カタカナにならないほうがいいのか。でもカタカナにならないような孤独な場所では、淋しくて死んでしまうに違いない。でもまあ、結局は死ぬからね。結局は死ぬというのは、なぜある一定値までは誰にでも共有された共通のモティベーションになるのだろうか。