坂中さん。皇居の平川門でズボンを脱いで、パンツも脱いで、交番の巡査に現行犯逮捕されたのですってね。最初その話を聞いて、ああ、そういう人だったのかと思いました。


でも、そういう人って、どういう人? 考えられば考えるほど、わからなくなります。坂中さんは、謎です。私たちの中の噂でも、かなり謎な、お客様の一人に挙がります。お店で話してると、普通に楽しいけど、でも何を考えているのかは解らないっていう。


そうなの?


前に聴かれたので「そうですよ。」と言いました。


その後、最初の頃の話をされました。


坂中さんはそうじゃないかもしれませんけど、私たちはいつもそういうことは憶えています。


いや、僕も憶えているんだよ、わかってるから、と答えるけど、実際はおぼえてない。というか、坂中さんの覚え方でおぼえているだけで、私の記憶とは違う。重ね合わせても、ぴったりと合う部分はほんの僅かしかないのだと思います。


そういう記憶じゃなくて、もっとそのときの、言葉の奥のところまで覚えてるんです。あのとき、ああ私はこれで、言いたいことは言って、それで終わって、これ以上は聴けないし、言えない。そういう壁まで来たんだって、そのときの気持ちを憶えているってことですから。


そうなの…。でもそれは、相当個人的なことだろうけど・・・とも思ったけど、そうは言わなかった。


で、それからも坂中さんはよく呑みに来てたけど、本格的にワインをお好きになって、それなりの真剣さでワインに取り組み始めたのは、今からほんの三年前か四年前くらいだと記憶します。しかもその頃は、たぶん飲み方をよくわかっていらっしゃらなかったのだと思いますけど、店に来て、まあ三ヶ月に一度くらいは、飲みすぎて蒼白な顔で帰っていきましたよね。あのあと、どうせ道に寝たり、吐いたりされたのだと思いますけど、まさに絵に描いたような、そういう顔色でしたからね。ああ、勝手にに飲んで酔ってるなと思ってました。


でも一年くらいしてから、、ふいに奥様と来られたでしょ。そして、ずいぶん時間をかけてワインリストを眺めておられて、スタッフを呼んで、ニュージーランドピノを取ったのだと思います。へぇ、ワインが好きなんだなと思いました。庶民相手のこの店のラインナップで、価格相応で、一般的な品質のよさを考慮すれば、たしかにそのワインは悪くない選択だろうな、というのを、あなたは選ばれました。


坂中さんの奥様って、ああいう人なんですね。お似合いだと思います。ああ、そうなんだな、と思いましたから。すごく、解りやすいです。いいなあって思います。


テリーヌと、ジュレと、火を入れたお野菜と、最後は子羊のローストを、ややあわただしく召し上がって、子一時間で、あなたはもう会計を指示されました。私は伝票を計算して、小さな紙に金額を左斜めに傾いた字で素早く書いて、あなたに示した。あなたは、大きな紙幣をお出しになり、そのあと小銭入れを開いて中を見て、ああ、ないや、これでいいやと言いました。


奥様も、あなたも、ほとんど酔ってらっしゃらないように見えました。開店と同時に来られて、まだ六時過ぎですから、まだそうそう酔うわけにもいかない時間だとは思いますが、それにしてもワイン一本強空けた二人としての、おおらかでゆったりとした、そこには不思議な、私の経験してきた範囲のなかにおいても、好ましいのみならず、それにおさまらないような、謎めいて緩くとりとめのない時間の流れ方がありました。