個別と類型


先日久々に行った店が美味しくて、きっとこの、ふと感じさせる柔らかさ、昔の思い出のような甘美さこそ、この店のあのシェフの持ち味に違いない。だからこの店のファンは、皆、この感じを好きなのに違いないと思ったので、店名でネットを検索して色々と調べて、そうすると、まあなんというか、食べ物に限らず何でもそうだが、そういう感想が色々と書かれたサイトが出てきて、それを読むと、人は自分の言いたいことを言うためにネットに書き込むのだという、わかりきったことをあらためて再確認するだけみたいなことになるのだが、でも僕だってその部類の一人には違いないので、それを見下す筋合いはないわけです。


しかしよくよく探していると、ちょっと面白い文章を見つけることもある。あ、これはいいかも、と思って、そのブログの記事をいくつか読んでみる。おお、いいな、こういう感じがいいのだと思う。書かれている内容がいいと思い、こういう考え方がいいと思い、こういう考え方を続けるための生活の立たせ方がいいと思うし、それを続けて行こうとする、大げさにいえば覚悟のようなものを変に気負いなくふつうに携えているのも、いいなと思う。要するにその在り方ぜんたいとして、いいじゃん、と思える。


ところで僕は食べ物なら比較的何でも美味しく食べてしまう、食べられてしまうタイプであるが、それはつまらないことだと常々思っている。結局は要するに、なんでもいいと思っているのだ。個人に則した吟味は必要なくて、ただ美味しいとされているものを美味しいと言って食べるだけ。はいそのとおりですねというだけ。それ以上に細かい違いを判断する能力が無いという、その自覚をもつ。だから何のことは無い、ただの野次馬的根性で、僕とはちがう他人の言葉、他人の嗜好判断を読みたいのである。


味覚のよろこびが強い人は大抵の場合好き嫌いがはっきりとあり、とくに嫌いなものへの嫌悪が強い。何でも美味しく食べられた方が良い、それはその通りだろうが、たしかに極端な偏食では色々差し障るだろうけれども、ある程度好き嫌いがあること自体が悪いとは思わない。むしろその「Aが嫌い」が「Bが好き」の裏返しの表現だったりもするのだし、常にフラットでニュートラルな自分が平等に好悪を判定するなんてことも実際は無いのだし。それをたとえば訓練によって「AとB、どちらも、好きでも嫌いでもない」と感じるようになってしまったらそれは却って損失だろうし、単純に「どちらも好き」になれば良いのかといえばそれも違う。どちらも好きだなんて、そもそも果たしてそのような事態が現実にありうるのか、「どちらも好き」は「どちらも、好きでも嫌いでもない」と見分けがつかないというか、実質的には「どちらも、好きでも嫌いでもない」という事なのだろう。好みを好みとして明確に輪郭付けるためには好きと嫌いを曖昧にしない方が良くて、そのためにはむしろ「嫌いなもの」の嫌な感じをけして忘れないように、時折その味わいや触感をあえて反芻して背筋をぞっと寒くさせたりして、いつまでもその嫌悪を忘れないようにしておくくらいの方が良いかもしれない。


などということをとくに「食べる」に関する文章を読んでいてよく思う。というか「食べる」に関する文章でもっとも輝くのは好みに関する描写で、それも嗜好が極端に狭いような人の文章とか嫌いなものの種類が多岐にわたる人の文章とか、そういうのをとくに面白いと思って読むことが多いし、自分のような平板な味覚的嗜好しか持たぬ者にとって、そういう偏狭さがうらやましいというか、ある種の憧れの思いで読むところもある。たぶん味覚の根源には、幼少期の記憶が色濃く結びついていて、人が何かを口にして、それをほんとうに心から美味しいと感じているとき、その人はある意味幼児退行した状態に等しいのではと推測する。食べるというのはだから人によっては自己のルーツを巡る旅のようなものだろうが、そうでない人にとっては別にそうでもない。だからといって、前者は幼少時から裕福で豊かな食生活を送っていて後者はそうでなかったとか、そういう話でもないと思う。そういう事例も多いだろうが、そうでなくても原体験的な記憶は誰でも持ちうるので、そこに貧富や生まれた場所や何かは関係ないと思われるが、しかし結果的に強い味覚嗜好を持つ人と、僕のようにそうでもない人の双方が存在するのは事実である。そして後者である僕から見て、食に関しては一般知識や情報に類することが書き連ねてあるよりも、個人レベルの好みに根ざされた文章の書き連ねてあるほうが面白いのだが、しかしそれはつまり如実に個別の表現力が問われるということでもある。すなわち自分の狭い嗜好、個人に根ざした問題が、説得力のある表現力をもって描かれてあるもの、それこそが面白いという、実に当たり前な話に落ち着いてしまう。しかしもう少し掘り下げれば、ここで言う「個別の表現力」も結局は「個別的な味覚嗜好」と見分けが付かないとも言える。


個別の事態に拘る、つまり網羅的でない、そういうのに魅了されるということ。自分の嗜好をそのまま維持し続けようとする文章すべてに魅了されるわけではないが、自分の嗜好をそのまま維持し続けようとする意志が、そのまま広がりを持つような感じを与える文章には魅了される。広がりというのがなかなか、何のことなのか説明が難しいが、言い替えるとすれば唐突なようだが、信仰とかそんな言葉に近いような気もする。何しろ、それこそ根拠なく成立してしまっている部分のことだ。それは文章力とか筆力の問題なのか?と言ったら、そうとも言えるのかもしれないが、文章力とか筆力っていうのも結局何のことだかよくわからない。つまるところそれは、結局は、書く人の性格の反映なのではないかと思う。反動的・退行的だが「文は人なり」みたいな言葉、じつはそれに尽きるのではないかと、最近常々感じている。「将棋とは人生なり」なら否定できても「文は人なり」を否定するのは難しい。いや、「将棋とは人生なり」も少なくとも僕には否定できないのだから、逆に「文は人なり」を否定できる人もいるのだろうけれども。まあ、それも個別の話に過ぎない。


自分という人を、よくわからないとは常々思うし、わからなくてもとくに気にしないというか気にしないことに慣れてしまったと思うが、自分が個別的なのか類型的なのかどっちなのかがよくわからないという事に対して、なんとなく気になる感じは、未だにあるかもしれない。こういう文章もつまりは「つまらない」のか「何言ってるかわかんない」のか、どっちに近い文章なのだろうか。というか、どっちでもないけれど、つまらない、という事もあるのか。あるんだよなあ…。それが。まあ、よくある事例としては、恋愛に破れたりしたときなんかに、はじめて見えてくる場所。それこそが現実的な絶望の場所であり、同時にあらたな希望なんだろうけれども。しかしこの年になってもまだこういう事を書く人というのは、やはり個別的とも言えるか。いや、単に「痛いおっさん」という事だとして、「痛いおっさん」というのは個別的なのか類型的なのか、判断が難しい、とは思わないか。