バスの停留所の名前は面白い。なんとなくいかにも、バスの停留所の名前らしさがある。車内放送にも、バスらしさがある。

走っているバスの中は静寂に満ちている。実際には音に満ちていて、車体下部からのエンジン音が振動とともに反響していて、外からはセミの声や他の車の音などの喧騒もガラス越しに聞こえてくるのだが、それでも静寂に満ちているように感じられる。

停留所が近づいて、バスは減速する。息苦しそうなエンジンの音が車体を震わせ、それにブレーキの軋む音が重なって、停留所に止まる。降車客が席を立つ。

ざわざわとした音。運転手の、マイクを通した潰れた声と、乗客が支払った小銭の、料金箱に投入されるちゃらちゃらした音を、マイクが拾って、それらの音が安いスピーカーのコーン紙を震わせて、車内に響いている。

バスの運転手は、停留所で車を停止させるのが愉快なのか不愉快なのか、どっちなのだろうかと思う事がある。どこにも止まらず、ずっと仕事が終わるまで走り続けているほうがいいのか、適度に停車したほうがいいのか、それともそんなことはどちらでもいいのか、そういうのが気になって、マイクを通じた運転手の声から、そういう気分を読み取ろうとしてしまう。

今日の運転手はどちらかと言えば愉快そうな声で、止まることが比較的嫌いではないタイプの運転手に感じられる。

バスで運転手と乗客が一対一になると、運転手としてはやりにくくないのだろうかとも思うことがある。車内にアナウンスするなんて、ばかばかしいだろう。もう、乗客があなた一人だから、お互いしばらく気楽にやりましょう、みたいな感じにはならない。急に、タクシーの運転手みたいに、世間話とかをはじめてしまって、それで道を間違えたりも、バスの運転手はしないものである。

昔、たしか大学生の頃、京都に来ていて、夜一人で、京都の町をうろうろしていて、たまたまジャズバーみたいな店に入ったことがある。店内は空いていて、客は僕を入れて三人くらい。

やがて、ステージにバンドが上がり、演奏が始まった。演奏の途中で、僕の先客たちは皆帰ってしまって、店内には、バンドが数名、客は僕一人という、悪夢みたいな情況が現実のものになったことがある。(しかし、想像するよりも意外に普通にしていられるものだ。結局、演奏は最後まで聴いたけど。)

ジャズバーのバンドマンたちは、もし店内に客が一人もいなければ、演奏を中断するのかもしれないが、バスの運転手は、途中で客が一人もいなくなってしまったとしても、それで車を止めてしまうことはない。ルートがあり、目的地があるから当然だ。しかし、道中、ひとりの時間は、どうするのか。バスの運転手が乗客ゼロの状態でバスを走らせている状態を知りたければ、バスの乗客の最後の一人になって、次の停留所で降りたふりをして、こっそりと車内に残っていれば良いのだと思う。

やがて、僕の降りる停留所の手前まで来た。

乗客はさっきよりも少し増えてる。僕を入れて7、8人くらいだろうか。

駅前なので、降りるのは僕だけではないだろうと思っていたら、やはり誰かが停止ボタンを押した。運転手がやはり愉快そうに、はい、次、停車しますとマイクで言う。

整理券の番号を見て、料金表を見る。目を細めて見るが、見えない。ほんとうに、目が悪くなったものだと思う。

最近は仕事でも、エクセルとかで作った資料を提出するとき、相手の年齢を考えてフォントサイズとかを変えたりするようにしている。この配慮は、とくに偉い人に対しては必須というか、いつもの感覚で資料を渡すと、後で打ち合わせのときなどに、君もあと何年かしたら俺の思いがわかるよ、とか云われてしまう。いや、自分もよくわかっている。とくにこういうときはそうだ。目の前の字はさすがにまだ見えるけど、遠い文字はほんとうに見えなくなった。

バスを降りた。地面に立つ。

降りたのは僕と、あともう一人だけ。思ったより少なかった。

そして、呆然とするほどの熱さ。セミの声が頭の内側で鳴ってるのか外側で鳴ってるのかわからない。足元から火で炙られているかのような熱につつまれている。

駅前のロータリー。タクシーが数台止まっていて、いくつかの商店が店を開けている。活気はない。如何にも地方の駅という感じ。

それでも、これでお盆の週間なのだから、昔と今では全然違う。

僕が子供の頃はたぶん、もっと賑わっていた。ここも所謂、観光地で、もう三十年近くも前のことだが、夏休みのこの駅に降り立つと、ほかにも国内観光客の家族連れなどがけっこういっぱいいたような記憶がある。当然さまざまなお店もやっていて、全体がざわざわと華やいでいたのだろう。たぶんこの駅に限らず、この地方一帯、昔と較べたら、全然人がいなくなってしまったのだろう。

ここから、近鉄特急で二時間かけて名古屋に出るのだが、切符を買う前に、電車の中でのむ酒を買いたかった。

どこかに酒屋がないか。そして、ちゃんと冷蔵されたワインが売ってないか。それが、手に入れられれば大成功。そう思ってしばらく線路と平行に走る道路沿いの商店をきょろきょろと眺め回しながら歩いた。

しばらく行くと、酒屋を発見する。しかも店内は、ワインのコーナーだけが別室になっている。嬉しい。ここ入っていいですか?と聞いて、どうぞと云われて、ドアを開けると全身を冷気が包む。たぶん室内十度前後くらいになっているようだ。並べてあるワインは、品数豊富ではないけど、この地域にあるお店の品揃えとしては、きっとなかなかのものじゃないかと思う。

ニュージーランドのクラウディベイ・シャルドネを選ぶ。すぐ開けて飲むわけだから、スクリューキャップであることが重要な条件。

買って、急いで駅に戻る。一刻も早く所持している水筒に入れ替えなければ、あっという間に温くなってしまう(よく考えたら、買った店内で入れ替えさせてもらえば良かったのだと後で気付いたのだが)。

入口脇のベンチに座り、手早く水筒のふたを取り、開栓したワインを注ぎいれる。人の目も気にはなるが、それよりもスピード重視で作業に集中する。350CCの水筒なので、ボトルの約半分ほど入っていっぱいになる。そのまま速やかに口を閉めて、鞄に入れる。よし、これで良い。仕事終り。あとは電車だけだ。ああ良かった。ちょっと水筒の口を開けて、ためしに一口飲んでみる。あ、なにこれ、うまい。と思う。

買ったワインがうまいと、いつもすごく意外な思いがする。こんなはずじゃなかったのに、何でうまいのかと、不思議というか、逆に文句を云いたくなってしまう。そう思っているのは、ワインではなくて自分のせいじゃないかとつい思ってしまう。それは、嬉しい気持ちの裏返しで、今回もそれかもしれない。

それにしても、酒がうまかったかもしれないというだけで、なぜこんなに嬉しいのか。何もかもがうまく行ってしまったような、この幸福感はいったい何なのだろうか。

これですべてが報われてしまったかのような、今回の旅行すべてがはじめから最後まで祝福されていたかのような、これはやはり、どうも何かが違う。そういう今の気持ち自体が、何かおかしい。間違っているという疑いもありながら、しかしやはりよろこびはよろこびとして確かにあり、しかもそれは、これから電車に乗ってこれから飲もうとしていることについて、なのだから、余計に嬉しい。おそらく飲む前のこのときが、いちばん嬉しいというだけなのだが、しかしそれはそういうときは常にそうで、嬉しいものは嬉しい。

切符売り場で、名古屋まで、特急券と乗車系で、禁煙で大人一枚の切符を買う。