早起きして電車に乗って北鎌倉まで。建長寺から大平山、瑞泉寺までのハイキングコースを歩く。世間一般でいうところの、登山である。でもそれほど本格的な、というわけでもなく、たぶん普段着でも行ける程度の、初心者にも易しいコースらしい。でもそんな、山に登るなんて小学生の遠足以来。みたいな自分らにとっては結構な運動量で、空気は冷たかったけど上着を脱いで長袖シャツ一枚で息もたえだえになりながら三時間くらいかけて歩いて、かなり疲労困憊して帰ってきたが、まあ面白かったというか、最初はこんな大げさな登山靴まで買って、リュックサックなんか背負って、ばかみたいだと思ったけど、やはりそういう格好で行くところだった。しかしこうして今後買う服もどんどんアウトドア系の店のものが多くなっていくとしたら、わかりやすい人だ。マイペースでと云っても、かなり必死で歩いていて、傾斜がきつくなると、自分に精一杯となるので黙り込み、なだらかな道になると楽になるので元気が甦ってきて嬉しくなってくる。二足歩行で歩くことの不安定感をずっと感じながら自分の身体を運ぶ。足をかけて、ぐっと踏ん張って重心を移動させて、身体がふらふらと揺らぐのを抑えて、足腰に負荷がかかって、登りが続く間はひたすら、そうやって交互に足で登って登っての繰り返しで、疲れがやがてぼんやりとした雲のようになって溜まっていき、脳内から陶酔物質が出始める。靴の中で感じている地面の感触も、目で見る景色も、音も匂いも、疲労の中では区別が曖昧になって外から来る何かとして混ざり合って感じられて、それでもとくに匂いが、木の匂いや土の匂いが、じつに鮮烈に、冷たい空気と混ざり合って届いてくる。匂いとか、味わいというものとは、異なる物質が、自分の中に入ってくる、自分と混ざり合う、という感覚をおぼえる。何かを食べたり、匂いを嗅いだりするときに実際に融合しているのだと思う。食うか食われるか、というようなことではなく、食っても食われても、どちらにしろ同じようなことで、食うどころか匂いを嗅ぐことですらそうだ。ただいずれにせよ、山へ行くにせよ、匂いを嗅ぐにせよ、食べるにせよ、それはああだこうだと悠長に感想を述べてないで、そういうことなら、そう感じたらもう、本当なら元には帰ってこないようなはずで、だから味わいや匂いの話の、そこの悠長さを何とかしないといけないのだろうが。