運転

小説の感想を書くというのは難しい、と言えば、それはそうには違いないが、その感想というやつを、書きたいように書くのが難しいというか、そもそも感想と称して、何が書きたいのかのフィードバックに見舞われながら、出したものが入ってきて混ざり合った曖昧な状態を投げ出すように書くしかないようなところがある。それが傑作だとか駄作だとかそういう雑な言い方ではなく、じっさいに読んでいたときの体験そのものを、なんとか外部に伝えたいと思うならば、もしそれを本気で突き詰めるならば、小説の感想はほとんど、小説の追体験をめぐるもうひとつ別の小説を書くことにも等しくなる。書いてるうちに、これはやはり面白いということなんじゃないのか、あるいは、これは思ったほどのことではないんじゃないのかと、自分のなかで大いに揺らぐものがある。そのような揺らぎこそが、その小説を読むこと、さらにそれを読んだという記憶の呼び起こし、あるいは読んだつもりがそうではなかった可能性、によって生まれたと言える。とはいえ、そのようなことを書く主体が自分であることは引き受けなければならない。だから、その感想と称して書きたいイメージに対する葛藤は避けられない。自分と自分の書いた感想との戦いにおいては、感想に味方するのが良いのだが、それが難しい。

小説にせよ絵画にせよ音楽にせよ、作り手にとってそれはたぶん、ものすごく乗りにくい、ハンドルをきれば反対の斜め後ろを向き、アクセルを踏めば床を突き破って靴底が地面をこすり、ブレーキを踏んだら頭上からタライが落ちてくるような、そういう意味不明の自動車を運転しようとした結果みたいなものではないかと思う。そういうものを必死になって運転しようとする様子を見ている、場合によってはその危険きわまりない自動車を、あたかも自分が運転出来てしまえているように感じるのが、作品を体験することではないかと思う。