金曜日も終わりだが、いったい何なのか。何なのかってこともないが。家に帰ってきて、だらだらと飲みながらテレビで北野武「brother」ウッディアレン「ミッドナイト・イン・パリ」と続けてみた。brotherはしょうもなくて飽きてきたので途中でやめたくなったが、かなり最後のほうまできたので、とりあえず最後までみた。ミッドナイト・イン・パリはそんなつもりはないのに観るのはたぶん三回目で、これもしょうもない話だと思うのだが、でもこちらはそれはそれで面白くて、主役のオーウェン・ウィルソンの喋り方は本当にウッディ・アレンそのもので、こうじゃないと許されないのだろうかと思って笑ってしまう。で、後半はひたすらマリオン・コティヤールを観ることになるのだが、マリオン・コティヤール。なぜかここ数年、この顔ばかりみてる気がするのだが、でも人の顔をみていることの不思議さを、つくづく不思議に感じてしまうというものだ。映像で、美人の顔をみているのは楽しいね、と簡単に済ますわけにはいかない、この不思議さ。まったく人の顔をぼんやりと観ていられるのは、映画の世界だけだ。あの顔に、いったい何をみているのだろうか。表情とは何なのか。あの眼の向く先、口元の感じ。それは過去であり、他人の記憶である。コール・ポーターの古いレコードを売ってる店で働いてる女の子も、まさにウッディ・アレンの趣味そのもので、それはウッディ・アレンの過去で、他人の記憶、他人の過去の知らなかった部分の急な現前化である。こういう女性の顔を、なんで僕が、こうして、しげしげとみているのか。何がどうなっても何もどうでもよくて、ほんとうに、単に顔だけだ。顔があるだけ。いいも悪いもなく、ただ、顔。それが過去の全部だ。トランプの札の全部の手の内だ。何の役も出来てなくて、ただの札。でも、パリの景色はやはり夜がいいのは、やっぱり川面が真っ黒の面で、ところどころ光りを反射してる感じがいいんでしょうね。それは神田川でも、そうだからな。