おそばのくきはなぜあかい
これは、子供の頃読んで、いまだにおぼえていた。先日、絵本の店で見かけて、二歳になる姪に贈った。二歳だからまだ読めないだろう。まあいずれ読むことがあれば、それもいいかも、というくらいのこと。
あんまり、いい話ではない。いい話だとは思わない。子供時代に、こういうものを読んだら、そのあと色々と悪い影響が出るのでは?とか、そんな風にさえ、云えるのかもしれない。善悪がはっきりとした、わかりやすい、教訓的な、直情的な、如何にもな、日本の昔話である。
久しぶりに読んで、もしかすると、この抽象性といい、訓示的な効果を図った簡略様式といい、もしや原典は中国の昔話なのでは?なんて思ったけど、そうでもないのか。どうだか、よくわからない。文章は石井桃子。話自体は、ほんとうに日本の「昔話」というものなのかもしれない。よくわからない。
これは僕にとっての、きわめて個人的な思い出の本なので、こうしてピックアップしてみたのだ。たぶん小学校に上がる前の頃だ。
昔々、まだ植物が人間と同じようにそのへんを動き回っていて、人間と同じように言葉を話していた時代の話である。
川を渡れず困っている御爺さんがいる。むぎは、御爺さんに冷たいが、おそばは、やさしい。挙句、おそばは、通りがかった御爺さんを背負って、冬の冷たい川を渡る。そのときの川の水のあまりの冷たさのせいで、おそばのくきは、今でも赤い。
僕はたぶん未だに、おそばの茎というものを見たことはないのだけど、少なくとも植物はそうやって、直立歩行していて、茎が足なのだということ。
自分の足の悴んで、霜焼けになる辛さを、植物と共有する。彼らを包丁で細かく刻むことの残酷さを、そこではじめて感じることだろう。
おそばは、物語上は、性別がはっきりしないが、僕の想像ではおそばは女性である。むぎが、面倒なことを忌み嫌うのと対照的に、おそばは、御爺さんを背負って冷たい川を渡ろうとする。その場その場でこういう労役を担う役は、常に女性だ。本当に厳しく辛い肉体労働を受け入れるのは、いつの時代も常に女性である。仮に男性が肉体労働を担うなら、条件としては常にナルシシズムが薬味みたいに付いてないとダメで、それがいまの現実の世の中に近い。
おそばは、物語の最後で幸せになるが、しかし、おそばのくきは、その後何年経っても、まさに今でも、ずっと赤いままだ。これが、強烈な印象を残す。現実の過酷さをまざまざを見せ付ける。後で幸せになれるけど、一生赤いくきの身体になるか、大して幸せでないけれどきれいな真っ白なくきのままで生きるか、おそばのくきはなぜあかい、が三、四歳の子供にいきなり突きつけるのは、そういう人生の大きな丁半博打みたいなものだ。
いや違う。おそばのくきの話が示しているのは、博打の結果の後の話だ。勝ったり負けたりしたあとの、翌年以降の、冬を迎える直前の、足許の冷たさ、シャツの袖から忍び込む冷気の容赦なさ、体躯そのものの冷えが感じる根源的な頼りなさ、よるべなさだ。寒くて死ぬ、寒くて死ぬ、と上ずった声でくりかえす、腹から胸の、乳首の真ん中辺りまでのぼってくる冷却空気の、ひんやりとした風。凝固する血。感覚の麻痺して、紅く染まる肌。革靴の内側の先の、冷凍庫で凍った葡萄の房が冷たく固まったような足指のまとまり。その経験そのもの。
だからいまも、おそばのくきはあかいのですよ。