高校のときの友人たち五人と会って呑み会。Wとは四年ぶり。残り四人とは卒業以来だから約二十五年ぶりの再会である。しかも内二人とは高校のときさほど親しくしていたわけではなくて、まともに会話するのは今回はじめてに近い。しかしそれでも、高校の同級生がそれだけの時間を経て会うとなれば、そもそもの親密度合いとかはあまり問題ではなくて、当時の記憶だけで楽しいものだ。終電ギリギリで二人が帰って、夜中の一時過ぎにもう一人帰って、あと僕を入れて三人は朝までコースとなる。朝までコースは会社の呑み会でもわりと多いのだが、大抵は始発待ちのグダグダモードになるか全員眠りに落ちるパターンが殆どだが、さすがにその日は話が尽きずに、同じテンションのまま朝になった。やっぱり、人と会って話しをするというのは、ある意味、自分に会うことなのだろうな、と思う。Wとは高校だけでなく、小学生の頃から知っている間柄で、進路も同じ美術方面で、デザイン選考の彼はデザイナーとなったが、僕は何にもならなかった。彼とは高校当時はもう、さんざん話をして、お互い顔を見るのもうんざりというくらい同じ時間を過ごした。そのときのウンザリ感はお互いによくおぼえているので、あのときはああいう感じだったな、という話を後々することにもなるのだが、それも既に何年も前にそんな話はしていて、さらに月日は流れてしまって、最近は僕とWは五年に一度くらいしか会ってないが、結局は会って話をしていると、「あのときはああいう感じだった」とお互い客観的に言いあって楽しむなどということは一時的なもので、本質的には「あのとき」そのものになるのだ。だから、問題は結局なにひとつ解決しない、というか、そこにしか生きていないということなのだ。今回はそれがよくわかった。僕はだから、二十五年前と同じように必死に喋り、真剣に聞き、強く反発したり、強く共感したりして、結論はグシャグシャなのだ。このぐしゃっとした感じ、そして、早く独りに戻って自分の仕事に立ち向かわなければという焦りのような感じ。やはり、これだ。という、たしかな満足感。しかしWは、やはり昔よりはずいぶん余裕があって大人っぽくはなったのだろう。それは昔からそうで、僕は高校のときは、基本的に聞き分けの無い、乱暴なことをあえて言いっ放しにして何の回収もせず、相手の反応を見て嘲笑的な態度をとったり無視したりと、要するにきわめて性格の悪い、我がままで相手に甘えた態度に終始していて、それはさすがに今はもうやらないけど、でもわかりやすい言葉に置き換えたり、安いところで頷き合ったりすることへの抵抗感というのは、どうしてもあるので、だから今はなるべく静かな気持ちで、へたくそな貧しい語彙を用いて喋るだけにする。でも湧き上がってくる感情はほんとうに、十代のときとほぼ何もかわっていないところがおそろしい。それを受けるWはやはり、昔よりはふところが深くなったなと思う。たしかに社会的にも経済的にもWと僕ではレベルにずいぶん差があるだろうし、それだけではなく、立場上Wが見ている視野角も広いだろう。そういう二十五年の時間が変えたものはたしかにあるが、しかしくりかえすがこうして話をしていると、僕はやはり僕だったということが一番の発見で、それは幸福な発見だ。