府中美術館の「O JUN−描く児」を観た。O JUNの描くイメージは好きだ。大変カッコよくて、もの凄く上手い、優秀な作品。人物、風景、乗り物、その他、組み合わせて、意味が重ったるくなるちょうど手前のところで、きっちりと外さずに仕上げる、たしかな技の冴えた感じ。遠景。距離をおいた視線。カメラのような、乗り物に乗っているときのような感じで、曖昧な不穏、緊張、不安を包み隠した快晴の日中を歩くようにして会場を歩く。船・飛行機・自動車、をみていると実になごむ。


人物を描くというのは、対象が誰かという事は、表面上は問題にならないのだが、しかし事実の結果としては、やはりそれが誰かに、左右されるものだ。たとえば、父が我が子を描くときはどうか。夫が妻を描くとか、老大家がヌードの若いモデルを描くとか、高校生が友達を描くとか。いずれにせよその関係性がこうだったから、絵がこうなった、ということはないのだが、その人物の手足のまっすぐなキレイさ、背筋ののびた、縦にすっと左右を分かつような感じの、その視線がどこから来たのか。人間のかたちは誰も大体同じで、あるときあるときのスナップショットを重ねてみていたときの記憶をリストアして、その復元元に、相手との関係が書き込まれているのか。いや、相手とのというよりもその一瞬の手の仕草、衣服の皺に、自分がおおまかにその相手だと思っていた、当のそれそのものがあらわれたのか。