演劇、映画

近所に、ある劇団の練習場兼劇場があって、ほんのすぐそこ、という感じの場所なので、散歩のついでに入場券払って観劇することだってたぶん簡単に出来るのだけど、しかしその勇気は出ない。まったく知らない劇団の舞台をいきなり観に行くことへの抵抗感というよりも、たぶん想像してしまう演劇というもの本来の「生々しさ」、いやな言い方すれば「白々しさ」をおそれている。おそらく何の隔たりも境界もないフロアの片側に客がいて、もう片側に「舞台」があって、そして「演劇」が発生して、そこで成立するはずの「約束」の、たよりない脆弱さを想像すると、それがおそろしくて、そこにあえて飛び込む勇気が出ないということだと思う。

目のまえで、人が演技しているのを、黙って観るということの「不自然さ」とは、しかしおそらくたちまち中和されて消え失せてしまうようなものだろう。どんな芝居だろうが、どんな入りにくいお店だろうが、入ってしまえば、かならずそれに慣れる。慣れるとはつまり、その領域内を支える決まり、規則、制度、約束を理解し、内面化できるということだ(だからこそ、決してそうさせない、そのような制度化を拒み続ける芝居の形式もあるだろう)。むしろそこに「白々しさ」「不自然さ」の要素がいっさい無かったとしたら、それは活気やよろこびのない「死んだ反復」だろう。

得体の知れない劇団の芝居を観る客になるのは、こわいものだが、劇団にとって得体の知れない客もまたこわいものだろうか。

レストランにとって、得体の知れない客は、いやなものだろう。得体の知れない客とは、何の目的でここに来たのかわからない客、ということだ。服装が合わないとか、マナーがどうとか、店にふさわしいとかふさわしくないとか、そういう話とは別の位相に、得体の知れない客はいる。どう扱って良いのかわからない客。

でも得体の知れてる客ばかりであること、あるいは服装にせよ作法にせよ完全に慣れているので、まったく「白々しさ」「不自然さ」の要素がない客を相手にするのは、それはそれで退屈でもあるだろう。

劇団にとって得体の知れない客、というものが考えらえるのだろうか。レストランの例え同様、作法やルールを内面化してるとかしてないの問題ではなくて、いきなりあらわれた、しかし何か出自の違う、脈絡のない、何を目的で、なぜここに来て、何を観に来たのかがわからない客。

「彼自身によるロラン・バルト

演劇における身体は、偶発的であると同時に本質的である。本質的だというのは、あなたはそれを所有することができないからである(それはノスタルジックな欲望のもつ幻惑的な威力によって賛美されるものだ)。偶発的だというのは、その気になりさえすれば(それはあなたにとって、できない相談ではない)、舞台に駆けのぼり、あなたの欲望の対象にさわることもできるのだ。

それに引き換え、映画はどうか。

映画は、それに反して、自然のなりゆき上、行為への移行をいっさい除外している。そこでの映像とは、表現されている身体の《取り返しのつかぬ》不在である。
 (映画は、夏、シャツを広く開いて歩いて行くあの身体たちのようなものだと言えそうである。《見てください、でもさわってはいけませんよ》と、その身体たちも映画も、言っている。どちらも、文字通り、《つくりもの》である。)