格闘技を観る(2)

格闘技にせよ何にせよ、とにかくはじめにルールを知らないで、どういう段取りでどういう結論に至るとされているのかまったく知らされていない状態では、まるで暗闇の中に放り込まれたようなもので、もしかするとこれから、自然状態というか、暴力そのものがあらわれるかもしれないという悪い予感との戦いみたいになる。とはいえ社会人が一般常識の範疇で催すイベントで、そんな無茶苦茶な出来ごとが発生するはずが無いと、さすがに頭ではわかっているのだけど、不安と恐怖感は消えてくれない。


もちろん僕だって、格闘技というものを今までまったく知らなかったわけではない。テレビとかでやってるプロレスとかボクシングとか、レスリングだって相撲だって柔道だって知ってはいる。とくにリングの中でたたかう類の、レフェリーがいてゴングが鳴って、ノックアウトとか判定とかのルールも、ぼんやりとはわかっている。その雰囲気というかイメージ的なものは、もちろん最初から知っている。今までそういうことを意識したことはないが、知っている。だから別に、これからとんでもなく突拍子もないことが始まるとは思っていない。だいたい、ああいう感じの、あの手のことなのだなとわかっている。開幕の時間が来て、主催者の挨拶とかレフェリーの紹介とかのあと、いよいよ第一戦目の選手が入場してくる段階になって、ああ、この感じは知ってるわ、見慣れたイメージだわ。という思いが強まったくらいだったし。


しかし嫌な不安は消えなくて、頭上から、かなり頭の悪そうな日本語ラップの曲が大音響かつ劣悪な音質で再生され始めて、スポットライトが花道の奥を照らしたときは、ネガティブな気分がピークに達していた。…この後、ここで十何試合行われるということは、少なくとも今から十何回かは、こういう愚劣な威嚇系音楽を延々聴かされることになるのかと思ってかなりうんざりした。


ぱっと照明が消えて、暗闇の中にスポットライトが光った。その先に、今日最初の試合に出場する選手があらわれる。若い男。青コーナー。金色に染めた短髪の、背はそれほど大きくなくて、痩身。でも筋張った、若い男性のもっとも美しいと言ってもかまわないような、まるで小型の高級スポーツ車のような、しなやかでなめらかな身体。こわばった表情は、まだ十代のような幼いあどけなささえ感じさせる。


続いて赤コーナー。青と同じくらいの背格好。しかし青に比べると派手というか、チャライ感じ。腹にも背中にも腕にもくまなく、もう手の施しようがないくらい身体一面の刺青。表情にはどこか人を侮蔑するような、周囲に対して虚勢を張るような雰囲気がまとわりついていて、試合前から相手を牽制するような感じ。如何にもなヒール役、物語の第一話に出てくる最初の敵役感満載。


ちなみに客席はけっこうガラガラで、ざわついた感じもない。静寂が支配する、と言っても良いような雰囲気。僕はリングサイドに座っていて、後ろを振り向くと後ろ何列かに人がいるだけで、リングの向こう側も似たようなものか。たしかにアマチュアの草試合を観に来る客なんて、身内とか関係者くらいのものだろう。しかし、こんな静かな場所で、こんな少人数で、これから目の前の二人が殴り合うとは、それをずっと見るなんて、そんなことができるものだろうか。座っている自分の体が、さらに強く緊張するのがわかる。こんなの、見ていて本当に面白いのだろうか。


選手二人が向かい合って、レフェリーの注意事項を聞いている。レフェリーの声や話し方は明瞭でしっかりしている。これから行うことは、きちんとした取り決めや仕来たりがあって、過去の実績があるのだと、はっきり示すような声である。だからお前たちは、これから闘うといっても決して誰もが見たことも経験したこともないような結果を引き起こすことは無いですよ。お前たち二人を、過去の実績の範疇内に無事に着地させてくれるものが、今ここで説明している数々のルールなのですよ。それがわかりますか?


二人は無言で見つめ合ったまま、やがて各コーナーに下がる。手振りだけで、始めよという意味の無言の合図があって、二人が中央へ近づいていく。いよいよ始まる。ついに暴力がうまれる。そのときが来た。一呼吸遅れて、ゴングがなる。でかい鐘の音。乾いた、金属の、耳の奥までしっかりと届くような、なぜかまるで朝が来たかのような感じの、とても爽やかな音。


…1ラウンド2分間で、計2ラウンド。結果、判定で青の勝ち。敗者はさっさとリングを降りる。勝者はリングサイドで待機しているミスなんとかの白いワンピースの女の子と並んで写真を撮り、勝者の一言を述べる。控えめでおとなしい声で、そつなく短く観客に礼を言う。…そっか、スポーツかあ、真面目かあ。と思う。


攻撃の手段は拳による打撃と蹴り、膝、組合って寝た状態になってからの絞め技、関節技など、のようだ。ボクシングに似ているが、組み合ってからはレスリングのようになる。リング下の各コーナーにはセコンドが始終選手に声をかけ続けている。おそろしく真剣な声だ。他人の、こんな真剣な声、久しぶりに聞いた。


顎を引け、撃て、離すな、足を使え、膝使え、ほら前に出ろ、絶対に離すな、負けんな、あと30秒だよ、我慢しろ、落ち着け、顎引け、我慢しろ…


試合の間中、観客である我々はこの声をひたすら聞き続ける。それが他人の声なのか、選手の考えている事なのか、自分の考えなのかが不明瞭になってくるほどだ。あとは選手同士の拳で肉体を撃ち合う音だけが聴こえる。肉同士のぶつかり合う音である。はっきりと、ダメージを与えることに成功したと感じられるような音や、逆に不発の一打に終わったときの音が、それぞれ違うことがわかる。


二試合目、三試合目と観ていき、当初の不安と緊張からかろうじて抜け出せていることを自覚する。たぶんルールというものが作動しているのを見たというか、感じたからである。つまり何もしらずに試合が始まって、ある程度の時間が経過するまでは、試合ではなくてルールを見ている。何度か反復される一連の出来事やその後に接続される異なる出来ごととの関係を類推して、今目の前の空間にどのような仕来たりが貼りめぐらされているのかを知るのである。


ルールというものは凄い。偉大な発明だ。その行為に固有な、共有されたルールが感じさせる手触り、とでも言うべき何かを見る。それを見て、僕は、試合を見たと思っているのだ。


ルールの下で、暴力が制御されるのを見る。腫れあがった肉や出血のイメージも、その制御下であれば恐怖を呼び起こすことはない。むしろ皆が共通して目指すべき先がちゃんと見えてくる。まったく驚くべきことだが、それぞれの選手の動きや、感覚や反射神経や、肉体の疲労の具合が、すべて我々が目指すべき先の方向に、関連づいた各機能の成果として、我々観客に対しておびただしい情報の渦になって示され始める。


試されているのはルールに基づいて勝つことで、そのためにはどうすれば良いのかだ。いや、勝敗は結果に過ぎず、基づいているルールそれ自体への、各々が身体を提供しての探求である。


それにしても、ルールに縛られて、ルールに軋むその体の、なんと肉塊のようであることだろうか。組み合ってリングに寝そべっている二人の、まるで本日のお肉料理のような有様。筋と肉。固い部分と柔らかい部分のまだらの入れ子状になって、もつれ合いひしめき合い、頭も足も一緒くたになって、すぐ近くにある見えない何かを求めて全身で手探りを繰り返す、無益で不条理な絶望的な時間の経過。いずれにせよこの古典的かつ強烈なイメージ。大昔にロンドンの場末のボクシング試合を観戦していた画家のフランシス・ベーコンの凝視していたようなイメージ。


このように制限をかけて、このように縛らなければ自覚できないのが身体だとも言えるし、このような縛りを経ない身体に何の価値があるのかとも言える。