むかし総合格闘技の試合を観客席で観たことがあって、今でもおぼえてるのは、リング上で闘ってる選手に対して絶え間なくアドバイス、激励、叱咤を送り出している、リング脇にいる「師」の声だ。その声は、試合の初めから終わりまで滞ることなく続いていて、リング上の選手は始終その声を聞きつづることになる。いや、もしかするとほとんど聞こえてないのかもしれないが、観客の我々はずっと聴き続けている。目の前の試合の展開と、選手の様子と、それを見守る「師」のアドバイス、激励、叱咤の声のミックス状態をひたすら見届ける。それはほとんど、目の前の試合と、そうではなくこうありたかったもう一つの試合、お前はこうしてこうするからこうなるはずだ、という仮想イメージの再生試行の、くりかえしのようなものになってくる。
そのことを思い出させたのが、年始にテレビで中継された駅伝のレースだった。走っている選手に対して、追従する車に乗った監督だかコーチだかが、やはり大きな声で激励、叱咤をくりかえす。その声をやけに鮮明にマイクが拾うので、テレビ中継を見ている我々にもはっきりと聴こえてくる。今必死に走ってる当人、今走ってないけど、走るならこうだ、こうしたほうがいい、がんばれと告げる「師」、両者がなんとか共有したい、あるぼんやりとした理想のイメージ、それを異なる立場の二人が手探りしている。今どこかで行われている駅伝と、誰かの頭の中にあるもう一つの駅伝、それを今と同じだけの力で成立させようとすること、それが勝利というか、目的というか、ゴールだと信じようとする努力。
長距離ランナーの(おそらく格闘技の選手も)、競技中の孤独感というのは相当なものらしい。それはふつうの意味での孤独ともちょっと違った、過剰な運動で心身の稼働率が極端に高まった緊急下での、ほとんどフィジカルなレベルの、生命体そのものがアラートを上げてる状況での「孤独」ということになるだろう。そういう状況下で、誰かが自分に声をかけてくれるとか、応援の声が聴こえるとか、そんなときに、自分に対して呼びかける声こそは「孤独」を打ち消す絶大な効能力を示すらしいのだ。それは当人にとって、ほとんど声の内容(意味)以前の何かとして届き、作用するのだろう。
ところで大相撲初場所のテレビ中継では、そんな声は聴こえてこない。相撲は土俵際で上のものが下のものに話しかけたりはしなくて、あの場で声を張り上げているのは行司だけだ。つまり行司の声が、相撲取りの孤独を回収しているのだと思うと、やはり相撲はちょっと特殊な競技だなと思う。