ちょっと、近所を散歩するだけだとしても、出かけるにあたって、少し支度をするにあたって、まず髭は剃るのか、靴下はやや厚手の長めのものを履くのか、だとすれば靴はまだ皮に固さの残るワークブーツにするのか、Tシャツの上に長袖の毛のシャツ一枚でいいのか、肩掛けの鞄はあれひとつしかないけど、いつまでもそれでいいのか、休日の適当な散歩のときだと考えることがいつもせいぜいそれくらいだけど、いつもそれでいいのか、行き着いた先で急に酒を飲みたくなった場合に備えた下調べはいいのか、など一つ一つに適当な答えを割り当てた上で出かける。出掛ける前には、たぶんいつも、これからの前途にほとんど何も関係ないことばかり考えている。しかしもちろん、事前に水をあげたパキラとストレチアをベランダから室内に戻して、瓶や缶や新聞雑誌をまとめてゴミ捨て場に出す。その目的からこぼれたかのように、そのまま出かける。でも我々は、一度玄関を出たらもう二度と帰らないほどの気合で家をあとにしているのも事実だ。今までの生活よ。さようならと告げて、何度も振り返りながら、夜逃げのスタートだ。夜ではなくて昼だ。日中、十一月もまだ上旬では、さほど気温も低くなくて、外でも充分に快適に生きていける。日差しが強い。たそがれてる?まだ正午を少し過ぎたくらいの時間だが、やや黄色がかった光が景色全体を覆う。空をみるかぎり、このまま雨にはならないような気がするけど、どうなのか。いつもより少し、歩調を早めに、歩いてみましょうか。時間の、節約と浪費の違いがわからない。お湯の沸くか冷めるかみたいな。お茶の、二煎目は間を置かずに、みたいな。なるべく早めに帰って、やっぱり家に居たい、と思いながら、どんどん家から遠ざかる。休日の最後の日を、自らの手でこうして終わらそうとする。できること、手元のわざを、事細かに記しておいて、このあとの時間のよるべなさを自己演出。一応の、紀行文的な体裁をあそぶような。


家の近くの公園に、一本だけあるポプラの木は、何年か前に枝を掃われてから、全体像がなんともみすぼらしく、ひなびた老木という感じでぽつんと立っていて、いつもその姿を見上げては、ああなさけないなあと思って目をそらす。夏場になっても、まばらに葉を付けているだけで、旺盛さのかけらも感じさせてくれず、ただ立ってるだけで、だるそうでみずぼらく、秋や冬になるとますます惨めで、ほとんど枯れているような姿で、やたらと背が高いけどがりがりに痩せたお爺さんの姿で、これでも枝をはらわれる前は、夏など葉を生い茂らせて、その葉の表面がポプラ特有のツヤにいろどられて、太陽の光を反射して木全体がきらきらとクリスマスツリーのように明滅していたものだが。しかし今日また別の、少し離れた公園に幾本かのポプラがいた。君らは、仲間か。でも、そいつらもそこそこみずぼらしかったので、見上げながらもともとポプラってこんなものだっけ、と思う。じつは昔から、数十メートル上空で二拠点間互いに挨拶し合っていたのかもしれないが。同じ環境で育つと似てくるというか、馴れ合いも出て、いまもしかしたら、足立区の中学生みたいに、勝手に成長している途中か。老けて見えるだけで、じつは我々より年下かもしれない。