未然の決断

代官山のアートフロントギャラリーで「浅見貴子 - 未然の決断」を観た。

ものを見るとき、形態を見る(把握する)ということと、注目したある一点(ある部分)を見るということを、一緒には実行できない。木であれば、その木全体の大きさ、枝の様子、葉の量や色、高さ、幹の太さなどを見るが、それらは順不同に、未整理なまま、我先にという調子で次々に目から脳へと伝わってくる。それを「高い」と思った、その余韻を背景にして、葉の色と広がりの様子がその上にじんわりと重なるように感受されたり、その背景の青空の透き通るような青さに気を取られたり、同じ木の並びが遠くまで続いているのや、背の低い別の木が多く混在していたりするのを、自分でも気付かないうちに、けじめなくとめどもなく感じ続けている。

見るという時、目を開けて見るのと目を閉じて見るのと、おそらく二つがある。しかし絵画はそれらを全部描くというか、それら全部を描こうとする挑戦のことでもある(展覧会タイトル"未然の決断"とはどんな意味だろうか。それらすべてを未解決なまま決断しなければならない、描くというのはそういうことでもある、との意味に考えて良いのだろうか)。ものを見る時に掛かる時間を、絵画は圧縮して提示するので、絵画を見ることで、ものを見るときにかかった時間が、まるで逆に流れるかのような事態が発生する。(これはロラン・バルトにとっての写真が「それは、かつて、あった」ことだけを示し、未来への可能性をいっさい欠いて、それを見た者は「時間」を遡ることによって見るべきものを発見する…といった話とはまったく違う件である。どちらも時間に関わる話ではあるが、絵画と写真にとって、それとこれとは別。)

その墨による巨大な斑点の連なりを見ていて、そういえば先々週、小石川公園で見上げたスズカケノキの紅葉した葉が、今こうして見ている墨点の力強さに、まさにそのようなものとして目に飛び込んできたな、、と、その時のことを思い出した。

浅見作品はこれまで何度も観てきたつもりだが、不思議なことに、絵をみて自分が実際に見た木や葉の様子を直接連想させられたことがなかった。あのとき、小石川公園のスズカケノキの葉は、ほとんど絵の具の色彩が直接空に置かれたようなコントラストだったので、それが目のまえの強烈な白と黒を見たときに呼び起こされたのだが、さて、それならばこの背景の白とは空だろうか、とふいに疑問が浮かんだ。

浅見作品の木々は、木々としか言いようのない形態で、それが周囲の空間と共にそこにあらわれている、というのは理解できるが、それにしてもこの絵は、たとえばどの視点から見たものか、見下ろしたのか見上げたのか、ようするにその背景が、実際には空だったのか土だったのかが、妙に気になりだした。もとよりその絵は、ある視点からの写像が正確に写し出されているわけではないだろうから、背景がどちらであっても、大した問題ではないというか、木々と背景が安定した図と地の関係を結んでいないからこそこれらの作品はスリルを含んでいるのであって、僕が思い浮かべていることは端的に愚問なのだが、しかし画家がその瞬間に、その色のコントラストをどのように見ていたのかが、気になりはした。

で、描かれた視点など、まとまりもないような話をギャラリースタッフの方と少し喋ってたら、スタッフの方がスマホの写真を見せてくれた。それは、浅見さんがご自宅の庭で木を見上げて素描している様子が写された写真だった。浅見さんはご自宅の庭にある木々をモチーフに制作しているのだが、ご自宅の窓から見下ろすような位置で描くこともあれば、庭の一画に坐って見上げながら描くこともあるとのこと。

その話は、たぶん以前もどこか別の機会で、聞いたことがあるとは思った。しかしその写真を拝見したことで、そこに写された巨大な松の木の見事な枝が、血管の広がりみたいに空を覆っているのを見て、ああー、こんなに立派な木なのか…と、いまさらように驚いた。僕の見ていた絵はその松の木ではなかったし、自分の疑問に明快な回答が返ったわけでもないのに、その写真の松を見ただけで、もうこれで充分というくらいに強い納得を得たように思った。いわば画家とモデルみたいな関係を、そのとき見たのかもしれなかった。