妻が図書館で借りてきた「精選女性随筆集 須賀敦子」(川上弘美 選)という本をたまたま手にとって読み始めたらすごく良くて、今日はこれで充分という気持ちになった。一つ目の「遠い霧の匂い」というエッセー。ここで色々書いても仕方がなくて、ただそれを読めばもう充分というくらいの、ほんとうにすばらしい文章。

(…)年にもよるが、大体は十一月にもなると、あの灰色に濡れた、重たい、なつかしい霧がやってきた。朝、目がさめて、戸外の車の音がなんとなく、くぐもって聞こえると、あ、霧かな、と思う。それは、雪の日の静かさとも違った。霧に濡れた煤煙が、朝になると自動車の車体にベットリとついていて、それがほとんど毎日だから、冬のあいだは車を洗っても無駄である。ミラノの車は汚いから、どこへ行ってもすぐにわかる、とミラノ人はそんなことにまで霧を自慢した。

 夕方、窓から外を眺めていると、ふいに霧が立ちこめてくることがあった。あっという間に、窓から五メートルと離れていないプラタナスの並木の、まず最初に梢が見えなくなり、ついには太い幹までが、濃い霧の中に消えてしまう。外灯の明りの下を、霧が生き物のように走るのを見たこともあった。そんな日には、何度も窓のところに走って行って、霧の深さを透かして見るのだった。

霧を吸い込むとミラノの匂いがする。という方言の歌を彼はよく歌った。


霧の匂いのするような、そういう料理を食べたい。わざわざ、他所の家みたいな、何の縁もないお店を訪ねて、そこで金を払って、酒を買って料理を買って、そのとき鼻腔いっぱいに吸い込みたいと思って期待しているのは、そういう、まったく何も知らない他人の手によるものであるにも関わらず、それを大昔の子供の頃から、自分もよく知っていたはず、などと思えてしまえるような、そんなある種の匂い。ほとんどそれだけを求めているともいえる。でも、まあ、そんな経験は夢みたいなもので、それは不可能である。