家の冬

今年は暖冬だろうとの予想は完全に外した。ここ数年でいちばん寒いかもしれない。冬なのだから、寒いのはけっこうなことではあるけれど、それにしても外出する気が失せはする。いくつか観たい美術展覧会もあるのだけど、寒さを思うと外出がやや億劫になってくる。

先日実家に帰ったときにも思ったけど、このことは帰省のたびに毎回思うことだけど、自宅以外の場所に滞在するのでもっとも違和感を感じるのは、家ごとの暖房器具の扱い方の違いだ。たとえばエアコンの風とか、ファンヒーターの風とか、そういうものの感触と匂いが、よそとうちでは完全に違う。

自宅ではそもそも冬はエアコンを使わない。どうも暖かい風が吹いてきてそれが身体にあたったり鼻や口を乾かすような感じがあまり身体に合わず、場合によっては微妙に具合悪くなってくるようなところがあるからだ。大昔はファンヒーターなども所持していたけどいつの間にか手放してしまって、今はリビングに炬燵があるのと、自室に電気ストーブが一つあるだけだ。それだけなので部屋全体の室温は低いのだが、それで耐えられるというか、一応充分というか、むしろそれ以上室温を上げたくない感じなのだ。電気ストーブなんて、こんなもの一つにどれほど効果あるのかと最初は思っていたけど、自室にいるだけなら充分に事が足りる。炬燵も快適ではあるけど、僕の場合十分も炬燵の中にいたら外に出ないと暑さに耐えられない。

だから自宅がいちばんです、と言いたいわけでもなくて、自宅も普通というか、たぶんもっと改善や工夫の余地も多々あるのだろうけど、とりあえずまがりなりにも毎日暮らしている拠点であるというだけだ。それでも、ここと較べたら実家でさえもはや他人の家だなとは感じる。それにここだっていつかはまた他人の場所へと戻るだろう。

昔の日本家屋が並んでる時代の人々の暮らしで、季節は夏で、玄関も窓も開けっぱなしの屋内で団扇を仰ぎながら畳の上に寝そべってる人に、外を通り掛かったご近所の人が、垣根越しに話しかけるような、ああいう他人同士、すくなくともご近所同士のあいだに遮蔽物のない暮らしというのは、今では完全に無くなったけれども、ああいうのは復活しないものだろうか。いやいや、もし復活したらこれ以上に鬱陶しい暮らしもないようなものだろうけど。だったらなぜ、そんな関係性の復活を思い浮かべるのか。関係性というよりも内と外のなしくずし的なああいう全体構成の方が、個人の内外の境界線をもとにした心身の不調とか快適とかの判断基準、そんな後から引いた線で決めたような本来どっちでもいいようなことを、おのずと消してしまえる気がして。そういう都合のいいことを、つい想像したくなって。

午後になって、猛烈に雪が降っているのを窓から眺めていた。こんなに降るとは思わなかった。明日の朝が思いやられる。ビルから外を見下ろしてると、雪は降っているのではなくて下から上へと巻き上がるような動きをしている。水中を右往左往する微生物を見ているようだ。