混沌


過去の自分の絵とか文章とかを見返すと、その当時の、混沌とした状態の中で、何も見えず、何もわからず、混乱しながらほとんど勘だけで判断して進んでいたときの感触をまざまざと思い出す。


しかし、当時の自分が未来の自分に対してもし何かを期待するとしたら、そんな感触を思い出すことよりも、その混沌をもっとクリアに見下ろすことの出来る見晴らしの良い場所で、置かれている情況に対する客観的な把握をしてくれることを望むだろうし、もし未来の自分と通信できるなら、おい、お前はもっとこうすればいいんだよ、とか、そっちの方向は違うんだよ、とか、そういうクリアで明確なアドバイスをしてくれることを望むだろう。


しかし、未来の・・・すなわち今の自分は、残念ながら当時の自分がやっていたことをクリアに見通すことができない。というか、ここにあるのは、一応作品と言っても良いかもしれないような謎の品々で、あのときはわからなかったけど今は明確にわかる、などとは、簡単に言ってしまえないようなものだ。


正直な話、僕は今、これらを見て、ほとんど「残念ながら、これはほぼ見込みが無いな」と思う。「このままでは、将来にわたって、ほぼ見込み無しかもしれない」とも思う。しかし、「百パーセント駄目というわけでもないぞ」とも思う。それは作品を観た感想として、そう思う。百パーセント駄目ではない、というのは、それがクリアに見通すことができない、という部分にのみ懸かっている。そして同時に「当時はたしかに、ものすごい混沌で、何も見えず、何もわからなかったな」という個人的な記憶がよみがえって来る。


作品を作るというときの、その混沌、何も見えない情況での暗中模索、というものに耐えられることが、制作者の基礎素養としてある。制作者というのは結局のところコマであり、作品次第で、死んでしまったり成功したりするのだが、制作者は常におおよそ自らの作品からもっとも遠くに疎外されていると言ってもよく、自分自身の問題として立ててしまった疑問に対するクリアな回答を得られる可能性はほぼない。


だから隣人同士で鏡のようにお互いを写しあわなければいけないということになる。そうじゃないと、ほんとうに簡単に死ぬ。いっぱい湧いて出てくる羽虫のように、ほとんどが死んでしまうのである。知り合い同士に自分を写し合いながら共に助け合って、自分だか相手だかよくわからないような対象を尊重して、守ってあげながら、それをし合いながら、結局成功したのか失敗したのかも判然としないまま、暗闇をただひたすら進むのである。


でも個人的にはそういうのはもう、ほんとうに…とも思うが、でも「お前は、何も、お前が嫌なら、やらなくても良か。でもその気があるなら、みんなに付いていくだけは付いて行きんしゃい。」と神様が言うので、とぼとぼと付いていくのである。