彼方


熊谷守一「へたも絵のうち」をじつは今までちゃんと読んでなかったので今更読んだのだが、とにかくこれを読んでいる間だけは、何とかギリギリ僕もまだあの作品群の側へ、かろうじて繋ぎとめられていられるような錯覚をおぼえるので、それだけでもありがたい。ありがたいと思うのも変な話だが、それを忘れてしまうことを恐れる気持ちがある。あれらの作品群の前を歩くのは、じつに何の支えもなくて、頼りなくて寄る辺ない経験である。僕はかすかな不安とも恐怖とも寂しさとも言えない曖昧な気分で会場にいたが、会場を後にすればそれは消えるだろうし、食べたり飲んだり会社に行ったりすれば、またそれらは向こう側に引っ込んでしまうだろうというのは明確にわかっていたが、逆にあれらはいつでも自分の中によみがえってくるのだとしたら、それは自分が二つに分かれているようなものだなとも思っていた。熊谷守一は「私は、ほんとうは文章というものは信用していません。」と言う。言葉で青と書いても、どんな感じの青か正確にはわからないからと。それは言葉の限界の部分を素朴に突いた言葉であり、しかし僕もさしあたり今はその言葉の通りほとんど何を書き連ねても何にも届いていないということを確かめているだけのような状態である。熊谷守一は「下手も認めよ」と言う。上手いも下手もその人あってのことなのだから、下手も認めないとダメだと。これこそもっとも素朴な言葉であるようだが、そうでもなくて、これはほとんど「すべて無駄ですよ」と言ってるに等しいような気がする。良いも悪いもないでしょう。「絵なんてものは、やっているときはけっこうむずかしいが、でき上がったものは大概アホらしい。どんな価値があるのかと思います。しかし人は、その価値を信じようとする。あんなものを信じなければならぬとは、人間はかわいそうなものです。」とか、勘弁してくれと言いたいようなことを言う。ただ「へたも絵のうち」は最後のギリギリのところで、やっぱり人間社会の側にある本だとも思う。相当凄いけど、それでも深沢七郎くらいには人間の側にあると思う。自分は勝負に興味がないけど、それを自分にどうのこうの言う人もいる。きっとそういう人は強いのだろう、とか言ったりもする。「へたも絵のうち」は書物としては相当面白いものだと思うが、しかし熊谷守一の絵画作品は「へたも絵のうち」という書物を越えた強さをもっていて、それはぼんやりと人を不安な気持ちにさせるような強さである。会場でとくに呆気に取られたというか呆然とさせられたのは、いくつかの風景と、庭先の雨どいから水が地面に流れてる絵とか、焚き火の炎を描いた絵とか、雨粒の跳ねたのを描いた絵とか…もちろんどの絵も既に知っている作品ばかりだ。以前別の場所で観ているものばかりである。しかし、それでもモノがいえなくなる。ここまで描くな描くなやめろやめろと云いたくなる。気味の悪ささえ感じる。得体の知れなさに躊躇が出て、ある部分だけを無意味に凝視したまま動けなくなったりする。空の青さ、夜の空の澄んだ青み、それを、そのようにしてしまったかと思って、ただ呆然とする。宵の月を、ここで絵画として、しかし現実として、実際に見るということがこれほど傷心に近い体験だというのが奇妙だ。面白いものだ。そして今後は「そちら側」に対していつまでも気がかりなままだ。それを忘れてしまって生きることも出来るだろうが、たぶんこれらの作品を観ているというのは、忘れてしまうかどうするのか、その決断を迫られているような感じなのだ。だから気が重いのだ。