再生


僕は99年から今の会社なので、すでに15年以上働いているけど、そのあいだ、辛いことも楽なこともあったけれども、辛いと楽の比率でいったら、辛いはたぶんのべ2年くらいで、あとの13年以上は辛くなかったと思う。


というか、つまりこの、のべ2年はまじで辛かった。細かく言うと、2001年ごろの約1年間と、2004年ごろの約1年間で、その合計2年ということなのだが、前者と後者では仕事内容も苦しみの質もまったく違うのだが、まあ辛かった思い出、という括りでは、すっと思い出せる二つのトピックということになり、まあふりかえってみると、過去の、計2年は大変でした、という


こういう、合計2年みたいな言い方自体、最近するようになった。なぜなら、若い人に話をする機会がたまにあるからだが、つまり、15年以上働きました。で、今まで振り返って、本気で辛かった期間が、全部足すと計2年くらいあった。でも、あくまでも結果論だけど、その2年で培ったものは、ことのほかでかい、という話をするからである。それで、これは自分の偽らざる実感としてそうなのだが、この計2年で知ったこと、身体に刻んだことだけが、それ以外の13年とかの時間を全部支えているのである。


これは、自分の実感として、まじでそうである。技術的にもメンタル的にも、あとある種の駆け引き的な場においても、全部当時の経験を参照して判断する。


もちろん、あまりこういう話はしたくないのだ。典型的な、苦労礼賛論だからだ。辛いことでも進んでやりなさい、的な、ブラック企業礼賛の、社畜的小間使い的なしょうもない話と思われがちだからだ。そしてそれは確かにそうかもしれないとも思う。


でも事実として、そのとき、その瞬間の戦場のような現場で、心臓の鼓動がばくばく言うくらいの、最強にテンパッた情況下で打ち込んだコマンドというのは、何年経ってもたぶん忘れないし、そのときに気をつけるべきことの箇条書きも、決して忘れる事はない。今その状況における全関係者、登場人物を思い浮かべる力とか、配慮とか、先手の先の何十手まで先読みした動きとか、そういうのも、あえて言えばすべて厳しい時間の中の不安感、恐怖心が養うのである。


そのような時間が過ぎ去って、しばらく経ったのち、ふいに一般論としての「抽象的な理屈」を聞いたとき、それが私固有な過去に基づく現場の思い出に、まざまざと重なるような経験というのは、ある種の感慨があるものだ。何もかもがルプレザンタシオンされるのを、ぼーっと見ているような気持ちになる。「抽象的な理屈」の効能を、それではじめてわかるという側面もある。


仏教がこの世界をデフォルトで苦しみの世界と捉えていることと、職場の経験論は近いものがあるのではないか。そもそもなぜ苦しまなければいけないのか?という疑問は、最初から除外されてしまう。今この現場ではどうしても仏教的な世界観ですべての民が仕事に従事しており、それは一生続くし、今生が終わっても、来世も同じだ。今あるこの仕事は、今だけでなく、明日も明後日も、今のお前の後に来るもう一人のお前に対しても、永遠に続くのだ。


最近、そこにリアリティを感じるようになった。この管理台帳を更新し続ける作業が来世も続く、ということの方が、じつはほんとうのことなのではないかと。何のかんの言っても、実際のところ、それ以外はまやかしなのではないかと。若い人にも今度そう言ってやろうかと。