疲労

年齢を経るごとに、身体のあちこちにガタがきて、体力も気力も衰えてきて、みたいな話は、たしかに一面では真実だが、必ずしもそうとばかりは言えない側面もある。

自分自身の記憶として、若いときにしばしば感じた「かったるさ」というのは、これはまさに筆舌に尽くしがたい、これほどの苦しみはありえないというほどの辛さだった。むしろ最近の自分は、あれほどの辛さを感じなくなって久しい。

目を覚まして、今すぐ起きなければいけないときの、まだ眠ろうとする身体を無理やり引き起こすときの辛さ…。あの苦しみを「いっそのこと、この場で殺してほしいと思うほどだ。」と言い表した知人がいたが、それを聞いてまさにわが意を得たりの思いをもったのを思い出す。

たしかに、朝起きるのはつらい。それは、今でもそうだ。ただしかし、そのつらさの質は、昔と今では違う。昔のような、ほとんど生理に逆らうような、意図的に自分の身体を毀損するかのような苦痛に見紛うほどの感覚は、今はない。

日中、出歩いていて、疲れてきて、午後を過ぎて夕暮れが近付いてくるにつれて、心身ともに絶望的なまでに厭世感にあふれて、なにもかもがいやになって、ほとんど生きていること自体を、いまいきなり全否定したくなるような、それこそが自分の根底に眠っている本来の欲望だということをいやがおうにも発見してしまうような、ああいう疲労感、ああいう苦痛をともなう否定の感覚も、もはや今の自分が味わうことのないものだろうと思う。

若い人なら、誰でもそうだと言いたいわけではないが、しかしあれはやはり、体力の余剰がもたらす業だったのだろうと思う。過剰さがスムーズな循環を妨げて、あらぬ現象を引き起こすがゆえだろうと思う。おそらく身体は充分なポテンシャルを保っているのに、脳や感覚がそれをきちんと制御できない、あるいは身体側が制御可能な信号を返してこない、だから無駄に疲労し苦悩する。

しかしそのような心身の通信不具合、過剰さから来るさまざまなアンコントーラブルこそが、自分という個体に固有な可能性でもあるのだろう。そのような不具合をもった身体を稼働させているからこそ見えてくる固有の景色があるのだろう。

若い人が体調悪くて会社を休む、あるいは業務中に具合悪くなるとき、今は疫病流行中なので周囲はそれなりにナーバスだが、そうじゃなくても若い人の体調不良が唐突で原因不明でわりとすぐ治癒しもするのは、今にはじまったことではない。それをケアすべき心の問題とか制度の問題でリカバリーする必要性の議論は、それはそれで大事だが、しかし若い人は若い人ゆえに、自分の身体をまだ扱いこなせてないがゆえに、その人の固有の苦しみを通り抜けなければならない、そこは避けられないので、それは突き詰めてしまえばその人自身の、その人の経験として消化するしかない。

話がズレたが、だから何しろ若い人の身体の苦しみは、年寄りのそれとくらべて、すごく辛いものだという話だった。とにかく若いということは、まだルーティン効果がぜんぜん行きわたってない身体だから、基本的に何をしても辛い。それはしょうがない。というか身体なんて、ほとんどルーティンで動かすべきものであるというのが、年寄りが経験と感覚で掴んでいるノウハウであって、年寄りは今更、自分の身体から何かあたらしい新鮮な情報を受け取ろうなどとは思ってなくて、たぶん心身間通信における九割以上の入出力は、何十年も前から使い古されてる既存データである。そのことを無意識で納得してるし、それでシレっと生きている。そのくせ、若さを失ったことを慎みなく嘆く。

自分の身体が与えてくれる諸感覚に、もはや大した期待をしない、これ以上はもう望まないと割り切ること。外部から何かを受け入れるということは、何にせよ、身体が与えてくれる感覚におきかわったものを受け入れるということなのだが、それでも私はもはや、今ある手持ちのカードだけ、私が自分の身体を経由して変換できるこれらの種類のカードだけで、今後は外部のあらゆる情報を受け入れていきます、それこそが固有の私であると、そう規定しました、今後はもう、それで腹をくくってやっていきます、というのが成熟ということなのかもしれないし、老化ということでもあるのかもしれない。