川口、横浜

川口市立アートギャラリー・アトリアで「樹々あそぶ庭々」浅見貴子作品展〈日々の樹―生々を描く庭〉を観る。最近作から過去作品までバランスよく、大作が並ぶいちばん端奥のスペースは広大で引きも充分にあって素晴らしい展示空間で、とても気持ちよくてなかなか立ち去りがたかった。


横浜へ移動して、【半島を生きる─半島的存在論を巡る対話─ 『半島論』第2回刊行イベント】へ。波打ちぎわとか中間領域とか非武装帯域とか、この世の様々な複数要素の寄り集まる場所ということでなるほど「半島」もまさにそうで、こと日本国周辺の「半島」について考えるというときには底知れない可能性がありそうで、実際に多種多様な観点の論考が集まっていて「半島論」は面白い本だったが、その出版記念イベントの一つが横浜は日ノ出町のお店を会場として開催され、場所柄からイベント中も前後も容易に飲酒可能なシチュエーションがすばらしくて会場も快適だったしイベント自体もとても面白かった、とても面白かったという記憶はあるが詳細をやや忘れ気味なのは少し飲みすぎたのかしら…。しかし土日の野毛はさすが観光地なだけあって平日よりも全然人混みがすごかった。そうだよな横浜って休日が賑わう場所なんだなと当たり前のことをいまさら思った。

そこは、好んでそこにいたい場所なのかそうではないのか、生まれたときからずっとそこで暮らしていて今でも気に入ってるのか、憧れの地についに暮らすことになったのか、観光旅行で滞在してるのか、そうではなくてたまたまそこで育ったとか、良いも悪いもないとか、その場所にどうしようもなく条件付けられているとか、何らかの理由で出て行けなくてそこで生きるしかないとか、さまざまなシチュエーションがありうる。

半島という場所の特性がまずあり、その影響下でそこに生きる人々の生がある、特性はその人と不可分なものとしてあらわれる。陸地なのに、ほとんど海の上にいるような状態であるとか、突端の舳先に身体をあずけているような状態であるとか、陸地にいるが、むしろ海に手が届きやすく、陸地とはやり取りし辛い状態だったりとか、僕は半島にいることで、阻まれるし遮断され、遅延や迂回が生じる、行動や計画に影響があって、半島に入るには関所を抜ける必要があって、関門を通り抜けるのは容易ではなかったりもする。自分には容易でも、他の人にとってはそうでなかったりもする。半島は海岸線に沿ってしか動くことができない、中央には山脈が走り、それを越えるのはやはり容易ではないかもしれない。

これらはこの私にとって桎梏や障害にもなるし、この私を守る条件、この私が気持ちを平安に保つことのできる条件にもなる。場があって私がいるというときの、半島は多彩なサンプルが揃った検証環境のような場所でもある。また過去や未来に存在した、または存在するだろう他者を想像するために、とりあえず自分に与えてみる条件とも言える。どうしようもないこととか、限界とか、あきらめるしかないことが、そのまま裏返して、別の私によって考えられる可能性を秘めた場所でもある、しかし移動できる領域の元々の少なさとか、迂回を繰り返すだけでほとんど移動できないのであれば、いつまでもその場所から逃れられないことも確かで、その巡回性、堂々巡りから離脱するためにはそれなりの力が必要でもある、半島は嫌な場所だが、しかし惹きつけられる場所でもある。半島じゃない場所をあまり知らないかもしれない。水に遮られている時点でそこは半島だ。水だ。乗船口へ向かう。乗り物の中で船が一番、偉いかもしれない。世界で最初に、水に物を浮かべてそれに乗った人は偉い。もともと水のせいで人間の行く手が阻まれていたけど、それに乗って行けば向こう岸に渡れる。それどころか、水の流れの方向へ早く移動できる。それまで行き止まりだったものが、道になった。それ以前に、単に水に浮かんでいることだけですごい。そもそも、船が半島の形をしている。

話者の言葉を聞きながら、色々ととりとめなく考えたりしていた。