金井美恵子


「砂の粒/孤独な場所で 金井美恵子自選短篇集」を読んでいる。まるで、小説が書いた小説、という感じである。人間が自己の内面の感触をたよりに作った、という感じはない。


過去何十年か何百年かの、人間に読まれてきた小説的な記憶が、まるで機械とか植物とかによって編纂されたもののようで、どの作品にも、すっとするような冷たい感触が流れていて、それが大変気持ちがいい。作者の金井美恵子は人間の女性だろうが、少なくともこれらを書いてる最中だけは、一旦人間であることをやめて書いたのではないかとさえ思う。


まだ全部は読んでなくて、残り半分くらいあるのだが、今のところ「曖昧な出発」「境界線」「調理場芝居」がものすごく好き。


ぼやっとした母性的な、艶かしい、エロな気配の漂うなか、孤独な列車内あるいは街中で、それも単なる「もしそうであったら」という想像的でしかない世界で、「列車の進行するリズムに身体を揺られながら、窓にはりついた雨滴の球体が静かに疑問符の形に崩れはじめ、やがて下方に線をひきながら流れていくのを見つめ」ている。


寝床に身体を横たえながら「重苦しい水の境界線。この瞬間、わたしは悪しき無限として増殖する忘却の反射を浴びて目ざめている。むせかえる湿気を含んだ驟雨のあとの暗緑色の空気。音もなく蒸気を吹きあげる緑色の植物たちの呼吸を感じる寝苦しい夜のひろがりのなかで、いくつの夜を不眠ですごしただろうか。」と思う。


古びた黒革張りの平たい箱を内ポケットに入れて、母から言いつけられて一人で汽車に乗る。革張りケースの角が、胸の肋骨にあたって痛くてきっと青痣になるだろうと思う。「まだ朝は早く、夜の間に地面や小石の敷石に沈んだ埃のにおいが樹木や草花の吐息とまじりあって、冷たい夜明けの空気に甘さが残っているのを、少し痛む肋骨をひろげるようにして---肋骨の周囲で引き伸ばされる筋肉---吸い込み、すると痛みが粒になって灰の奥に一緒に吸い込まれる。」


革張りケースは灰色のツィードの旅行着を着たモーリン・オハラのような女に盗られてしまったのだろうか。眠りから覚めると、内ポケットの口を閉じていた安全ピンが「シャツを通して上着の裏地を皮膚に縫いつけるようにして胸に刺さっている。」


身体を横たえて、大勢の人間の匂いが滲み込んだ汽車のシートに頬を埋めて、身体を丸めて、眠りこんでいる。「目を覚ますと、前の座席に坐っている座っている女の、白っぽい色の短いタイトなスカートが覆いきれずにむき出しにしている、柔らかな銀色の芽のような産毛が輪郭線をバラ色の光で包んでいる脚が見えた。」スカートの奥の「内股に浮かび上がっている青く透き通った静脈は三角州にむかって流れる川のように、微かに波打っている。」


夜や早朝に、密かに息を吐いている植物たち、あるいは、女性の皮膚(内股、あるいは胸の乳房のあいだ)に浮かぶ青い静脈。くりかえされようとするかすかな官能の気配。こういうのがすべて、おそらくこれまで過去何十年か何百年か、幾度と無くくりかえされてきた小説的な出来事なのだ。だからそれは現実ではないのだが、しかし同時に、それこそが現実なのだ。