死ぬ


プリンスが死んだという話は、なぜか妙にリアリティが無い。今日もまた「あ、プリンス死んだのか」と思って、「それにしても、死ぬというのはどういうことだったっけ?」などと考えてしまう。言葉の上っ面でしか「死んだ」をわかっていないようで、だから一度そう思ってもしばらくすると忘れて、その後でまた「あ、プリンスって、死んだのか」と思い、なんとなく不思議な気分になる。


ここ数日、はっぴいえんどばかりひたすら聴いていて、大滝詠一って人はこの時代の声とそれ以降の声、というか歌い方が、まるっきり違うのが面白い。「ライヴ!!はっぴいえんど」の大滝詠一のボーカルはほんとうに素晴らしくて、「抱きしめたい」あるいは「12月の雨の日」の歌い出しの瞬間とか、あまりにもソウルな、いつも僕のなかの理想的なものとしてある、けだるく重たい引き摺るようなファンクネスが滴り落ちるようで、マジで鳥肌がたつ。


大滝詠一もすでにこの世にいない。…と書いて、「この世にいない」という言葉もわかったようでわからない言葉である。この世にいないって、死んでいるということだが、大滝詠一が死んでいるという話も言葉の上っ面以上には、その意味がわからない。


いや、では大滝詠一が生きているとか、プリンスが生きているという言葉ならわかるのかと言うと、突き詰めればそれもわからないということにはなるのだが、でも生きているをわからなくても、まあいいかとも思うが、死んでいるをわからないのは、どうにも落ち着かない感じがする。


こうして死ぬ話ばかり書いたり考えたりしてると、また急に誰かが死んだりするから困るのだ。最近はほんとうにそう。まあ、誰かが死んだと言われても…もっともらしい顔で葬式なんかに行っても、実際は誰もその意味などわかってないが。


今日、CSN&Yの「4 Way Street」収録の、久しぶりに「ohio」を聴いて超感動。これは泣ける。プロテスト・ソングであることは知ってるのだけれども、何を歌ってるのかはよくわからないのだけれども、ああ、怒りにふるえている、と思って、その状態で感動してしまうという、ほとんどCSN&Yの「ohio」を聴いて感動していると言えるのかどうか怪しいとさえ言えるが、しかし日々のなかで大抵は、そんな風な感動ばかりで、何の身も結ばないこと夥しい。でも、ほぼ毎日、感動的。


というか、何これ…。死ぬほどカッコいい。




しかし信じられないな…。死んでしまったなんて。