カルメンという名の女


金曜日に新宿のツタヤで借りてきた「カルメンという名の女」を観る。銃撃戦とか裁判とか、人をなめたような、ふざけきったような場面がいっぱい。こういうのを観ていると、銀行強盗なんてそんなに難しいことではないのだなと思えてくる。いや、実際にやるのは難しいけれども、銀行強盗をするということ全体を、想像してみるのが、ぐっと簡単になる。たとえば僕が明日、急に映画を撮ることになったしたら、登場人物にはまず銀行強盗をやらせてみたらどうだろう?とか、そういう発想を容易にしてくれるような力がある。だからつまり、それ以前に僕が明日、急に映画を撮ることになるという唐突な想像を、平気で喚起させてしまうというところに、それが証明されている。映画は全編にわたり弦楽四重奏団ベートーヴェンを演奏していて、そうなのこれがベートーヴェンなの、けっこういいねえ、と思って、しかしやはり海辺の別荘のシーンが、ひときわ印象的であった。


男は、すごいぐにゃぐにゃした、二枚目の、気の弱そうな、なさけないヤツで、女はシレッとした感じの、気の強そうな、付き合いとしては接しづらそうな、別に何をどうとか、なんとも思ってないようなヤツ。ほとんど動物的というか、昆虫的というか、神経直結な行動が断続的に続く。この一貫性のない、キレたような、勝手に塞ぎこむような、いつものゴダール的な女である。こんな女が、本当に実在するのかというと、実際は映画だから、こんな男もいないし、こんな女もいないし、こんな関係もなくて、でもそこから組み上がっていて、そこから始められることがあるのだと、僕の若い時は、それがまったくわからなかった、というより、納得できなかったものだ。でも今思えば、それはそれで良かった。納得できたって、だから何?というだけだ。何十年も経って、今観て、ああなるほどねと思って、でもある意味、そんなの知らないよ、俺に関係ないわと思っていて、それで良かったのだ。だから僕の場合は、それはそれで良かった。ああ、じゃあそれで、べつに良かったんだな、と思った。それはそれで、また別の道があって、それを進んだのだ。


夕暮れから翌日の朝までの時間、薄暗い室内の窓際に佇む。弱い光を受けて、横顔の輪郭線をぼんやりと浮かび上がらせる。それが、まろやかで、はかなく、うつくしく、まさに、そのためにいる、とも言えるような女だ。しかし、それだけではなく、最初から最後まで、すごくじたばたして、最後は死ぬ。死ぬ間際、同じ問いをふたたびくりかえす。相手は無表情にこたえる。「お嬢様、わかりません。」「お嬢様、それは暁です。」残された、何事かのやり取り。


暗闇の中で、ぶつぶつと、つぶやく二人の声。波の打ち寄せる音。夜から朝へと時間が経過する。朝方の光。たっぷりした、のっぺりした水の量感。波打ち際のライン。横の線と斜めの線の交差。水の果てしなさ。その汲めども尽きぬ重さ。深さである。いつまでも、のたのたと、寄せては返す。


ところでこの映画は、二十何年前にも一度観ている…はずだったのだが、まったく記憶になかった。おそらくこれが初見だ。所見?いや、そうとは思えないのだけれども…。じゃあ僕が「カルメンという名の女」だと思っていた、あのいくつかのイメージは、いったい何なのか?確かに、実在する映画なのだが…。