アニー・ホール


アニー・ホール」をDVDで。僕はどうも以前から、この映画をけっこう好きだったらしい。というのは、どのシーンもかなりよくおぼえているから。好きだったらしいなどという言い方だと、今はそうでもないとか、もう卒業したとか、そういう意味を含ませたい感じになるが、そういう意図はなくて、本当に久しぶりに観たら、ああけっこう好きだったのね、というのを思い出したのだ。自分の記憶の積層の、かなり若い頃の段階に刻まれているのだ。


で、この作品一本から受けた印象が、ウディ・アレンの多くの作品を観た記憶に滲みこんでしまっているという感じで、見ていてウディ・アレンの、このやり取り、この台詞、すべてが「アニー・ホール」一個の中にあったのか、と驚いたのだが、たとえば紹介される二つのジョーク --ウディ・アレンとしてはそれが男女関係を示すものと言いたいらしいが-- 。まず冒頭でグルーチョ・マルクスの「私を会員にするようなクラブの会員にはなりたくない」ラストシーン近くで「先生、弟が自分をニワトリだと思っています。」「早く入院させなさい。」「いや、でも卵はほしいので。」…これ、どちらもこの映画で出てくるジョークなのだと思い出した。…しかし、それこそ映画を観る人間として、ウディ・アレンが好きだと公言するのは、けっこう覚悟がいるというか、それを好きと言いたい自意識がキモイという部分もあり、これらのジョークこそ、それを示すものだとも言いたくなる。


プライドが高くて、常に引きこもりたくて、でもじつは言いたいことがいっぱいあって、同属嫌悪というか似非インテリ風なヤツが近くでペラペラと喋っているのが気に入らないとか、彼女の元カレに嫉妬とか、いい女を連れて調子に乗ってるやつが許せないみたいな、いつものウディ・アレン的根性を、本作ではかなり本腰を入れてネタ化していて、映画の入場列に並んでいるときに後ろで「フェリーニベケットも心に響くものがない、そもそもマクルーハンの影響が…」とかなんとか大声で喋ってるおっさんの声にイラついて、聞こえないフリするにも耐え難くなって、いきなり観客に向かって「こんなとき、皆さんならどうしますか?」とか語りかけて…最後はものかげから唐突に本物のマクルーハンを呼んで来て何か言わせて溜飲を下げ「いつもこうならいいのにね」とか…。じつにバカバカしいのだが、まあ、久々に観ると、やっぱりそれなりに面白いよなあ、と、微妙に苦々しい思いのままに認めざるを得ない感じである。…それがつまり…ネットで調べたら「第四の壁を破る」という言い方をするらしいが、はじめて観たときはこれが面白かったのだ。はじめて筒井康隆を読んだときもそう。別にその方法が、今さら面白いと思っているわけではない。それが新しくも何ともないのは、誰でもわかる。道具が良かったのではなく、そうではなくて、道具の使い方が、目が覚めるように良かったということ。


元々没入行為である恋愛に対して、自らは自身に対して徹底的に客観的、分析的でありたいとも思うし、相手の一挙手一投足は神経症的ままでに気になるし、それをどのような距離感をもって、どのように行動させて、物語上にあらわすのかという、自分語りとそうではない部分との、これは目まぐるしいせめぎ合いであり、それとは無関係に俳優としてのダイアン・キートンが演じる女性の(俳優そのものでもあり、役柄でもあるものの)その人物自体の魅力、と言って差し支えない何かとが混ざり合って、でもまあ、映画作品としては、結局は自意識を慰撫してくれるもの、に過ぎないのかもしれないのだけれども、それでもこれなら楽しめると思える適度なものに仕上がっているのだ。半私小説的な構成の、かなり洗練されたもので、心地よい再帰の感覚を楽しめるというか。


全然忘れていたシーンもある。主人公はコメディアンで、ステージ舞台袖で進行スタッフの女の子に出演順のこととかで色々文句言うのだが、結局その子と一夜を共にして、でも結局上手く行かないのだが、こういうのを見ると、ああウディ・アレンってやっぱり普通にモテる人だったんだろうな、と、エピソードを作家本人の経験と混同する愚かな感想を思い浮かべてしまうのだが、でもウディ・アレンって外見的にそんな女性からモテるわけないと思いたくなるのが人情ではないかと思うのだけれども、おそらく事実としては、そんなことないのだ、ステージに立つような商売の人というのは、きっとそんなことないのだなあ、などと思った。…まあどうでもいいけど、妙に印象的だったので。


あとNY派としての、西海岸周辺への思いとか、ロック文化周辺にまつわる思いとかも、けっこう明快に描かれていた。(LAのプロデューサー?プロモーター?かなんかの役でポール・サイモンが出演している。)…要するに、自分の住む狭い場所以外は、全部嫌いなんだな、と。


あと、ローリングストーン誌の記者の女性、どこかで見たことある…と思って調べたら、やっぱり「シャイニング」の奥さんだった。


で、本作はやはりダイアン・キートンである。台所で床に落ちたでかいオマールエビをビビリながら拾うシーンでの二人の楽しそうな様子には爆笑させられる。テニスの後で、恐る恐る遠慮がちに、どちらからともなく一緒に帰りましょうかと言い出すシーンも。蜘蛛が出たからと言って夜中の三時に呼び付けるシーンもだ。この映画は結局、ダイアン・キートンの魅力がそのまま、鮮烈に焼き付けられているということが、結局いろいろ考えて分析したとしてもそれで納得できるものではなく、少なくとももしダイアン・キートンがこうで無ければ、こうではなかった、というもので、その一点において、作品全体がいつまでも瑞々しいのだろう。