会社の人たちで最終日恒例の忘年会1に出る。なんか、やつれたんじゃない?と言われる。途中で失礼して、電車で下板橋に移動。友人らが集まる毎年恒例の忘年会2に出る。もうすっかりおっさんになったと言われる。どこがそう見えるの?と聞いたら、白髪が増えたし、なんかげっそりした感じで、とか言われる。つまり少し体重が落ちると、昔なら痩せたねとか言ってもらえるのに、今ではもう、やつれた、老けたという風にしか見えないのだと判明する。でもこればかりはもう、しょうがないでしょうな。受容しました。なんとでも言ってください。まったく2016年は僕にとってまさに老いのはじまりを実感した年と言っても過言ではない。たとえば自分で自分のことを思い浮かべるとき、その自分とは実際よりも少し若いころの自分だったりしないだろうか?自分が何かしているその光景をもう一人の自分が見ているとしたら、何かしている自分はどうみても二十代後半から三十代前半くらいに見える。自分というと、無意識にそういう自分が心の中にプリセットされているのだろう。ところが今年は、そのプリセットイメージに更新がかかったような気がするのだ。すなわち、自分を思い浮かべたとき、その人物がかなり自分の実年齢に近づいたような気がするのだ。とくに自分で自分の顔を思い浮かべたときに顕著で、その顔はたぶん今実際に鏡で見たときの顔の感じに限りなく近い。というか、自分で自分を鏡で見たとしても、ある特定のタイミングでなければ、自分の顔を他人事のように老けた中年の顔があるとは、なかなか思えないもので、鏡のなかの顔を見ているようで人はそれとは別の幻想を見ていることが多いと思うが、今年はその幻想が少しひび割れたというか、リアルな物質としての顔や姿かたちが、自分のイメージの各属性に大きく書き加わった感じがする。そのような、ある意味イメージとしての老いがまず認識され、さらに血液検査とか尿検査の数値とかもそうだし、水泳とか活動量とかBMIとか、いろいろな抽象要素と無意味に戯れて躍起になったりごまかしたりしているうちに、次第にぼんやりと今の状態っぽいものがおぼろげにごろんと量感をもちはじめたみたいな感じだろうか。


というか、そんなことよりも、忘年会2の会場で一つ衝撃があって、いつも参加してるBさんが最近できたらしい彼女を連れて来ていたのだが、Bさんが女性を連れてくるなんて、いままで一度も無かったし、さらにその彼女が我々よりもかなり年下の、それこそしゅっとした感じのキレイな、ええ?!っと驚くような、まあ、なかなか素敵な子で、恥を忍んで申し上げると、僕は正直、この事態には我ながら意外なほど狼狽、混乱、困惑を隠しきれませんでしたね。それはつまり、そうか我々は、この年になってもまだまだ捨てたものではないのだ、そう信じて良いのだという単純な喜びでもあり、こんな幸福がほかならぬ彼に訪れたという事実に対する燃え立つ炎のような嫉妬心でもあり、少なくとも目の前で起こっているような事態は、自分にとっては何十年も昔の過去にあったのか無かったのかわからないけれども、とにかくそのように過去的な何かであるはずだが、まるでそのまぼろしが今、目の前で誰かの身体を借りて再現されたのを見ているかのようだ、みたいな精神錯乱でもあり、とにかくもう、僕はほとんど始終、おそらくは両方の顎関節が外れてかすかに上下してるみたいな表情のままで、その場でずーっと唖然としていましたね。でも、そうか、よく考えたら、Bさんみたいな感じの人って、まあいわゆる、モテる中年、みたいな感じとも言えるのかもなあ。。だらんとだらしないような、疲れたような顔してるけど、ああいう感じの男が好きだっていう女がいるの、なんかわかるわ、みたいな、二人が帰った後で、いつまでもくどくどとそんな話を続けてたら終電がなくなってタクシーで帰宅する羽目になった。あーばかばかしい。ろくでもないわ。来年もこんなか。