完治


https://twitter.com/katotadafumi/status/845599420750184449

このツイートを見て、昔読んだ絲山秋子の小説「作家の超然」の下記の箇所を思い出した。

「通常、頸部の大動脈と大静脈は寄り添っています」手術の説明の日、医師が最初に発したのはこんな言葉だった。
「そう、ちょうど倉渕さんのお兄さん夫婦のようにね」
おまえは振り向かなかったが、兄がきょろきょろとその辺りを見回しているのが気配でわかった。
「ところで今回の腫瘍は、喩えて言えば、そのご夫婦の真ん中に時子さんが居座って仲を裂こうとしているんですね。」
おまえは突然、胸を熱くする。
これは、物語だ。主治医は語ることができる人だったのだ。
皮膚を切り、末梢神経を切り、筋膜を切り、血管を押し広げて神経とその鞘にできた腫瘍を取り除く手術の説明は、暖炉の前や、真夏の木陰や、打ち解けた者同士が集まる小さなバーでの物語りのようにすすんでいった。


読んだ当時、この箇所が強く印象に残って、しかし理由はよくわからなかったのが、それが「完治がないなら作れば良い」という言葉で、「物語」とは「語る」とは何か?の説明として、あまりにも鮮やかにかんじられた。


病気は物理現象だし、治療は、あくまでも科学的な営みなのだろうから「完治がないなら作れば良い」は、おかしいのだ。にもかかわらず、そうだ、それしかない。人間がなんとか正気を保って生きていくっていうのは、要するにそういうことなのだ。それ以外の何物でも無いはずだと、やたらと力んで言い張りたくなる。


そうそう。ほんと、完治っていうのは、つくるものなのだ。


もちろん最初から作っちゃうのでは、ダメなのだ。それでは誰も騙せない。自分自身をも、騙せない。だからギリギリまで、科学的に、論理的に、徹頭徹尾、きっちりと真面目に、誰にも文句言わせないくらい、誰に対しても後ろめたさを感じないくらいに、ちゃんとやるのだ。でも最後の最後で、完治をつくる、


そこが、泣けるところなのよ。