まことに無根拠な、僕の勝手で浅はかな思い込みに過ぎないけど、2011年の東北の震災以後、僕は水死で絶命することへの恐怖が薄くなったと思っている。薄くなったというより、あれだけ大勢の人々が水死したことを思うたびに、水死とは、きっとこれまで自分が思っていたようなことではない、もっと違う何かのはずだと、今もどこかで思っている。

何が恐怖で不安なのか、悲劇の想像の先にあるものは、実在するけど非実在的でしかない。それに直に触れることはできない。だからこそ恐怖と不安につつまれる。

今の医療技術というものがあり、今の生命維持に関する倫理というものがある。これらも実在するけど非実在的でしかない、ある意味で、死そのものと同じく、実感のない頼りないものにも思われる。

衰弱していく肉体を、それでも出来るだけ生き永らえさせるために、今の医療技術と、今の生命維持に関する倫理は適用される。生きるとは何か。それは脈拍であり心拍であり脳波である。これさえ静止しなければ、それは生きている。だからその稼働時間を一秒でも長く継続させる。それが我々の「倫理」だ。

しかしこの「倫理」を信仰することのほうに、得も言われぬ恐怖と不安を感じなくもない。病院で説明を受けて、手術されて、また説明されて、ひたすら数値で計測される日々を送る、その時間を「生きる」ということ。それは、やがて来るものへの不安や恐怖ではなくて、今この現在がまったく無根拠な幻想に支えられていることの不安や恐怖として、あらためてふくらんで来ないものだろうか。