能力


あまりにも天気がよくて、裸でぬるま湯のなかを進んでいるみたいだ。ここまで快楽的だと、かえって不機嫌になってくる。不機嫌でいるべきではないかという気になってくる。


町田の国際版画美術館で横尾忠則 HANGA JUNGLEを観る。関連イベントの『出張アトリエ会議』(横尾忠則保坂和志、磯粼憲一郎)も聴講した。ユリ・ゲラー…。


超能力がもしあったら、それはそれで、とても普通なことだ、超能力なんてない。もしあったら、それはただの能力だ、みたいな話を聞いたことも、あったかもしれない。ユリ・ゲラーはすごく金持ちだ、みたいな話が出ていたかもしれないが、なぜユリ・ゲラーが金持ちなのかは、想像だけど、あれだけテレビや本に出たら、それは金持ちに決まってるだろうと思うか、超能力があるんだから、それは金持ちに決まってるだろうと思うか、そこはずいぶん違う。


そもそも、我々の社会は超能力者を--そこで僕は超能力を空間的制限を他と共有しないで時間を生きる者ととりあえず定義しているが--を、想定しないで構築されている。だからこの世の全てのセキュリティ施策は、物理的にも人的にも、超能力者に対して有効ではない。ゆえに超能力者にとって、たとえばお金なんかは、そのへんに落ちているゴミや石と変わらない。その気があれば拾い上げることもできるし、必要なければ爪先で蹴飛ばして終わりだ。


しかし五月の気候はさすがに、超能力者にとってさえも気分がいいものだ。空間的制限がなく、すべてが同時にここであり、ここが同時にすべてでもあるような場にいたとしても、ここで感じた気分の良さについては、それを全的に肯定する。あと、酒も美味いと思う。月並みなようだが、それは格別なもの。


横尾忠則の話というのは、単なる交友関係として、池田満寿夫とかジャスパージョーンズとかラウシェンバーグとかサンタナとか関口宏とか由美かおるとかユリ・ゲラーとか、次から次へと当たり前のように普通に出てくるので、聞いてるとちょっと時空間超越な感じがしてくる。


関口宏って、そんなに昔からテレビに出てるんだ!五十年前とか?そんな時代から?今朝のテレビにも出てましたよ?」


あのときもいたし、今もいるというのは、なぜかそれだけでおかしい。長く生きるというのはそれだけでほとんど超能力的な感じもする。時間や空間と身体との境目が緩くなってくるのだろうか。