深夜バス


23:00、新宿南口改札を抜けると「バスタ」は目の前のビルである。案内図にしたがい4Fに向かう。フロアを上がっていくのに、目の前を何台ものバスが通り抜けていく。建物そのものが、バスの乗合用に作られていて、バスも螺旋状の道路を走行してフロアを昇っていく。ちょっと見た事のない異様な景色である。そして、案内板だの切符売り場だの売店だののある待合スペースやその周辺の廊下、通路、乗り場あたりにたむろし、座り込み、うずくまっっているたくさんの人々、ほとんどが、若い、二十代とか、それ以外もいるだろうけれど、全体的にとても若いひとたち。それが、ふだんなかなかお目にかからないくらい沢山、溢れかえるばかりに、それぞれの行く先のために、それぞれの時間を待機していた。すごい、こんな新宿、はじめて見た。ほとんど外国に来たような錯覚をおぼえた。


とりあえずビールが飲みたいと思って売店を探すが、目の前で行列になっているファミマ以外に買い物できる場所は周囲になさそうで、仕方なく並んだ。店が狭くて、会計に並ぶのではなく陳列棚の前に行くために並んでいるような状態なのだ。人の隙間をみて、すーっと飲み物売り場まで動いて、すーっとレジに並ぶと、思ったよりも早く買えた。そのへんに立ち止まったままで、飲みながら周囲を見渡すと、夏の夜の、あわただしい、乗り物を待つ人間たちの、旅行者たちだけがかもしだす、不思議な息使いと排気ガスが混じり合ってその場に堆積している、そんな鬱蒼とした空気が充満していた。


0:00ジャストの便を予約も支払もすでにネットで済ませているが、この後どうやって乗車するのか、いまいちよくわかってない。案内の人に聞いたら乗るとき名前言って下さいとでかい声で教えてくれた。そうなんだ。ブルーノート東京みたい。そうこうしているうちに、おそらく自分が乗る便の同乗客らしき人々が、少しずつ並び始める。皆お一人様、若い人々。小綺麗な普段着の女性も普通にいる。バスが来た。ゆっくりと揺らぎながら停車する。名前を言うと、座席番号を言われる。その席に座る。窓にも運転席にも、厚めのカーテンが掛かっていて、舞台の緞帳の合間にいるみたいな状態。隣にはTシャツに半ズボンの男性。すぐにブランケットをかぶってしまう。座製は一席と通路を挟んで二席。一席の方は席ごとにカーテンで遮蔽されるので、あっちなら一応個別空間を作れてそれなりに快適かもしれない。二席の方だといわば相部屋みたいなものだ。どちらにせよ、移動のための乗り物に乗り込んだというよりは、簡易宿泊部屋に案内されたかのような感じだ。で、バスが発車して、5分も経たないうちに車内灯も消灯される。まさに眠る以外の選択肢がいっさい奪われた状態。いや、それでかまわない、そのための深夜便である。自分もその気になる。つまり、即入眠をこころみる。眠ろうとする。身体をシートに預け、頭を窓際に押し付ける。車輪が道路を噛んで走る音と振動だけを頭をの中のほとんどにしたまま、観念して、ただじっとする。


1時間半くらい経って、眠るのをあきらめる。やはりこれは、慣れが必要なようですね。なかなか、そう簡単には、上手くいかない。次回機会があったら、もっと上手くやる。今夜は、もういいや。さっきまで読んでた本の続きを読みたい。しかし車内は真っ暗で、隣は寝てるし、読書灯着けるのははばかられる。iPhoneの画面で照度最小なら、かろうじて許されるか。iBooksは背景色黒に白文字になるので明るさ控えめで、金の無駄だとは思ったが、仕方なくさっきまで読んでいた文庫本をオンラインで検索して、その場で電子書籍版を購入して、続きを読み始める。


【フランス人たちを乗せた輸送車が停車し、自転車を漕ぎ続けたマリ=エレーヌ・ルフォーシューは遂に列車に追いついた。列車から出てくる人影の中から夫のピエールを見つける。その瞬間「この世のどんなものも、たとえそれが親衛隊の機関銃であろうとも」彼女が夫に声をかけるにを妨げるのはできなかっただろう。手で自転車をひいたまま、彼女は二人をへだてているヒナゲシの咲き乱れる牧場をつっきり、土手を駆けあがって、二人の兵士を押しのけ、三輌目の車輌の駆けよった。やつれはてたピエールの前に立ったとき、彼女はふっと思いついたままを行動にあらわした。ポケットから白いハンカチをとりだすと、彼女は汗と脂で真っ黒になった顔に押しつけた。
 どういうわけかわからなかったが、ピエールの後ろに立っていた親衛隊の兵士は肩をすくめてみせただけで、この若い女性が囚人の乗り換えの終るまで、顔色の蒼白な、危なかしげな歩き方をしている夫の側について歩くことを許可してくれた。片手で自転車をつかみ、片手で夫の肉のおちた指をつかんで、彼女は夫や、その不運な仲間の道行に同行した。ぼろぼろになった夫のズボンに、彼女のスカートがかすかにふれていた。彼女がこの二時間のあいだに味わったよろこびの半分をうるためにでも、自転車に乗ってここまでやってきたかいがあったというものだ。乗り換えのための、心を顛倒させるような残酷な二時間に、二人のかわしたいろいろな言葉のなかで、マリ=エレーヌの記憶に刻みこまれたものが一つあった。その言葉を聞いたとき、マリ=エレーヌは、ゲシュタポの拷問も、この男をくじくことができなかったことを知った。夫はまだユーモアを解しているのだった。親衛隊の兵士が二人を最後にひきはなしたとき、ピエールは微笑をうかべて彼女に言った。
 「こんな旅行をさせられたあとでは、マリ=エレーヌ、ぼくはもう決して寝台車の料金がどうのこうのと言わないって約束するよ!」】


この箇所まで読んで、走行中のバスの暗闇の中で、思わず微笑み、そのあとで、ほとんど泣いた。地図で見ると御殿場とかそのあたりを過ぎたあたりだったかも。今、書き写していても、胸の奥が熱くなる。


少し疲れて、iPhoneをOFFにした時点で何時だったのか、まったくおぼえてないが、やがて覚醒とも睡眠ともいえない時間がおとずれた。しかしやはり、ほぼ覚醒状態に近かったと思われる。ひたすら走行音とエンジンの唸りと振動に包まれて、流れ続ける灰色の時間を見ているだけみたいな。まったく起伏のない、無色の平面上のすみずみまで、だいたい記憶してしまっているような記憶、というのは、だから錯覚で、所々意識は途切れているのだとは思うけれども、たぶん結局、最後まで眠れてはない。カーテンの向こうが明るくなり始めたのも、思ったがより早かった。名古屋。あと二時間、あと一時間と、ひたすら考えていた。念のために後で活動量計を確認したら、やはりその日は、僕は睡眠を取ったことにはなっていなかった。