カフェにて

JAIHOでホン・サンス「草の葉」(二度目)。配信終了する前に再見した。

弟と弟の彼女とキム・ミニとで会食。彼女はお姉さんに挨拶する。キム・ミニは彼女との結婚を考えてるのかを弟に問う。肯定の意で頷く弟と彼女。キム・ミニは憮然とした表情で彼らに言う「よく知りもしないくせに結婚だなんて無責任だ」。必死に姉を説得しなだめすかそうとする弟と彼女。なおも態度を変えずに傲然と言いたいことをまくしたて、最後はほとんど喧嘩別れみたいになってその場を立ち去るキム・ミニ。姉の態度を彼女に詫びる弟と、お姉さんは正しいとキム・ミニを庇う彼女。

キム・ミニのイラつき、鬱屈、わけもなく当たり散らしたいのを押し殺して、カフェで一人、PCに向かってキーを叩いている。そんなキム・ミニのやや不安定な気分が、おそらくこの映画の基底に流れている。

弟と彼女とのやり取りも含めて、あのカフェに集っていた様々な人々。彼ら彼女らはつまり、キム・ミニの頭の中に想像された、キム・ミニによって創作された人々であると僕は前回のブログに書き、それは今回もやはり同じように感じながら観た。が、念のために書いておくなら、言うまでもなく、この映画はすべてがキム・ミニの妄想の産物であるという風に描かれているわけではない。

キム・ミニはカフェに長時間滞在しているふつうの客で、たまたま居合わせた様々な人々の会話が漏れ聞こえてくるのを聞きながら、ぼんやりとそれらのやり取りに思いを巡らせている、彼ら彼女らの会話から思い浮かぶストーリーを、キム・ミニが聞き取って文章に書きつけている様子が終始とらえられていると言っても良い。それだけといえばそれだけの話である。

たぶん、それはその通りなのだ。「彼ら彼女らはつまり、キム・ミニの頭の中に想像された、キム・ミニによって創作された人々である」と僕が言うのは、これは間違いで、これは「カフェにたまたま居合わせた様々な客たちの様子と、その漏れ聞こえてくる言葉を聞きながら端の席に座ってPCに何事かを入力し続けているキム・ミニの様子。」なのだ。

しかしそれもやはり、間違いなのだ。ここには「つまりこういうことです」との枠に収められる内容がない。ただ終盤にきて、脚本家の男がふたたび彼女に話しかけ、そのあとタバコを吸いに外に出たキム・ミニに、やはりたまたまタバコを吸いに出てきた冒頭の男が「ずっとあの席で何か書いてるんですね」と話しかけるあたりから、得体のしれない感動がじわじわとやってくることだけが、ある確からしさとして残るのだ。

男がふと、通りの向こうを見やると、そこには韓服で着飾った弟の彼女の二人が、互いに記念撮影をして遊んでいる。日中に見かけた貸衣装屋に行ったんだな、と、映画を観ていた者はそれがわかる。その衣装屋はキム・ミニも知ってるはずだ。彼女はもう店に戻ったので、それを見たのは冒頭の男一人だ。なにしてんだろ、と言いたげな表情で男も店に戻る。すれ違うように脚本家の男がタバコを吸いに外へ出る。彼はもともと、日中は外のテラス席にいたのだった。キム・ミニも含めて彼らは誰もが、小休止のためにひととき表に出る。その内と外の境界に何か区別があるとは思わない。むしろ区別はうやむやだ。しかし何もかもがあやしく、あやふやで、彼ら彼女らの存在すべてが儚いもののように、さっきからその様子を見ている我々は感じ続けている。やがてこの映画が終わってしまうのだろうと予感しながら、せつなさで胸がかすかにうずくような感じをおぼえている。鉢植えの葉が最後に映し出される。