テーブルを囲む


セザンヌの作品で、カルタ遊びをする人を描いたものがある。レストランに行って座席に座ったときに、あの絵のことを思い出すことがある。いや、思い出すというより、一瞬だけ自分が、あの絵の登場人物になったような気がする。登場人物という言い方も適当ではなくて、セザンヌの絵に、登場人物という要素は無いと言って良いと思うが、ではそこには、何があるのか、それを言葉にするのは、かなり難しい。というより、言葉にするのが無意味な変換でしかない気もする。今の自分に戻って考えてみたらどうか。見下ろせば自分の身体がある。椅子に座っているから膝から下はテーブルの下の暗闇に消えて見えない。しかし相手と自分との間にあるまとまった量の空間と、テーブルの下一枚隔てたその下の大体同じくらいの量の暗い空間と、二人の背中が壁のようにそそり立つがその周囲に広がっている茫漠として捉えきれないような広がり。やがて酒と料理が運ばれてくれば、我々二人はやや俯いて食事に集中するだろう。ナイフとフォークを持つ手はテーブルから数センチ上を浮かんでいて、肩から肘、そして手の先までの角度が小刻みに変更され、それが空間に響くリズムの基調となる。囲まれた空間が連続した動きに歪みながら振動すると共に、料理の温かさで膨張して内側から対流する。二人の頭部によって挟まれた隙間を抜けて湯気が立ち昇っているが、食事中の二人はもちろんそれに気付かない。二人は皿を見ている。あるいは傍らのグラスを見て、それを持ち上げて口に運ぶ。テーブルの上は、コントロールパネルのように、様々な順序立ての組み合わせを待つ。試行とくり返し。運ばれて、口に運ばれて、空いた皿が光を鈍く反射し、それがまた運ばれる。あとは只時間が流れる。食事が進む。


来月になったら、男性四名で食事会とのこと。メンバーは、いつもの連中だが、男性四名…。それは一体、どんな絵なのか。なぜか少し、途方に暮れる思い。