目を閉じる

屋外で絵を描くこと、それは、その場であらわれるものとか、消えゆくものとか、動きとか、そういうのをできるだけライブ感覚でリアルタイムで感知して、即時的に画面に定着させようとする試みだろう。だから屋外で描かれる絵は、事前の設計図をもつことができない。これまでの経験や技術によって、起こる出来事と制作とをできるだけ柔軟に折衷していくチャレンジとして計画されるしかない。それを突き詰めたのはモネだろうが、モネの仕事を継いだ画家はいなかったといっていい。マティスもボナールも、印象派とりわけモネからは多大なインスパイアと恩恵をあたえられただろうが、彼らはモネの方法論そのものを踏襲はしなかった。モネの仕事は、多くの賞賛を集めて歴史的に価値を認められつつ、すでに発展的に解消されたものとも言えるだろう。

屋外に出た以上、そこに展開された景色を画家は見るしかない。屋外に出て、わざわざ目を瞑ることはしない。そこが罠で、屋外に出ることで人間は自らの意志で目を閉じる自由を失う。旅に出たら体験しない自由が失われるのと同じで、人間はどうしても目的に従属してしまう。

モネにとっての屋外とは光の変遷であって、それ以上の要素をモネはおそらく意図的に無視している。モネは屋外に出て、人間の知覚とはこういうものであるということを作品によって定義した、その仕事に触れ、それにはげしく反応した後続画家たちの、モネへの強いフィードバックが、二十世紀絵画をあそこまで豊穣なものにしたともいえるだろう。(じっさいにモネの作品をひとつひとつ観ていくと、そう単純にものを言うことが憚られるような固有の強い抵抗感があり、こういった文章を書く意欲を挫けさせるのだが…)

モネがいたから、モネが見なかったものを見ようとした画家があらわれた。セザンヌの言葉「モネは目に過ぎない」というのは、それを予見した言葉でもあっただろう。モネは見なかったものとは、見ようとしても見えないもの、むしろ目を瞑ることでしか見えないものであり、それを我々がかかえる知覚の問題として引き続き探求した人たちがいた、マティスやボナールもそのような画家であっただろう。