図書室

新潮12月号の岸政彦「図書室」を読んだ。最近読んだものだと、山下澄人柴崎友香も「いかれころ」の三国美千子もそうだが、大阪弁など関西の言葉だけに可能な人々のやり取りのリズム感というのは、強烈にあるなあと思う。作品のベースに大阪のことばが深く息づいている、というのはその言葉をあやつる登場人物の思考のスピード感やリズム感や間や休符の置き方の感じがそのまま作品を成り立たせているからで、柴崎友香「公園へ行かないか?火曜日へ」で終盤に出てくる「エモーショナルな言語」=「マザー・タン」としての大阪弁についての話もあったけれども、そこでの話に則って考えれば、もし方言で書かれた作品を標準言葉に直してしまったら、それは「翻訳」になってしまう。その意味で大阪という場所の、小説を生み出す言葉の場としての豊かさを感じることが最近は多いと思う。

「図書室」では小学生の男女二人の、大阪ならではと言いたくなるような、まさに如何にもな漫談的な掛け合いというかやり取りがたっぷりと展開されていて、ところどころで笑わせられるし、やっぱり大阪いいなあ、大阪弁を聞きたい、大阪の飲み屋で黙ってじーっとそのへんの人々の何でもないやり取りに耳をすませていたいと思ったりもする

子供が「世界の終わり」を予感したときの行動は、大人から見て、予想不可能だとも言えるし、ほぼ予想可能だとも言える。本作の子供たちも結局はわりと簡単に大人たちから見つかってしまう。問題はそれが大人から見て予想可能かどうかよりも、それがどのくらいの危機感で行われたことなのかだ。危機感を感じて対処策を施すこと、完全な対処は不可能としてもできるだけのことをするというのは、大人も子供も関係なくて、これはその人間の器量とか度量の問題になる。本作の子供二人は、とても頼もしいし信頼できるので、このあとも世界をまかせたいと思う。


個人的な昔話だがあれは一九八二年、イギリス軍とアルゼンチン軍はフォークランド諸島沖で戦闘状態に突入していた。当時僕は小学校五年生だった。おそらく冷戦とか核兵器など、そういった物騒なものを含んだ現世のややこしさについて、ぼんやりと知りはじめた頃だ。(映画やテレビの影響でICBM:大陸間弾道弾という言葉を知ってる子供はけっこう多かったと思う。)ある朝とつぜん、成宮君が真剣な顔で僕のところまで来てこう言うのだ。「まずいよ、イギリスにアメリカが協力することになったらしいよ。」僕は「え?」と応える。成宮君はなおも続ける。「もし本当にそうなったら、アルゼンチンにソ連が協力するだろ?そしたら大変なことになるよ、もう世界はダメだよ!!」そのときの成宮君の苦渋に満ちた表情を、四十年近く経った今でも忘れられない。

ちなみにこの前会った友人から聞いたところ、成宮君は今、某大企業の部長職だそうで、へえ…すげえな、そんなに偉くなったのか…と思った。