Marcel Duchamp

東京国立博物館デュシャン展、予想よりぜんぜん良くて、初期絵画群の中にわりと有名なやつがしっかりと展示されていて、これだけでも観る価値大いにありだった。初期の淡くて美しい色調の人物群像や風景もふつうに良かったが、「階段を降りる裸体No.2」を観ることができるとは思ってなかったので、アッと思った。

デュシャンは最初ピカビアなどと共にキュビズム的なところから出発して、やがてキュビズム的な空間から離れていった、というよりも、キュビズム的な空間ではなくキュビズム的な時間?の流れ?を発展・拡張させたという感じもする。「階段を降りる裸体No.2」を観ると、未来派のもっとも過激な美術家こそデュシャンだったのではないかとも思えるし、キュビズム未来派の折衷案のこの上ない傑作という感じがする。


「階段を降りる裸体No.2」は連続撮影された写真が一枚の印画紙に焼き付けられているようなプロセス転写型のイメージを思わせる。動きがあって、それをある形式であらわしたいと考えてしまっている思惑そのものまでをイメージに含んでいるかのようだ。キュビズム的だが、ほとんど撮影に失敗したというか偶然シャッターが切れて撮影されてしまった写真イメージのようにも見える。しかし画面のあちこちをあわただしく動いて走りまくる線と形態は、運動をあらわすと同時に、運動を説明しようとする機能の側面も隠さない。それらはマンガに描かれるアクション記号のようにも見えるし、製図に書かれた注記や表記線のようにも見える。リアルタイム感と事後感の両方があり、目まぐるしさとか密度と客観説明の両方がある。少なくとも、それを画面の中に両方入れ込んだらどうだろうか、という提案の姿勢(愉快さ、不遜な図々しさ、徹底した気合、そして笑い)がある。

「キングとクイーンの間を」時間キュビズム未来派的な世界から「花嫁」になると、金管楽器本体ような、内臓器のような、ピストンやシリンダーやマフラーめいた器官状の形態がが錯綜するイメージがあらわれる。クールな「チョコレート磨砕器」もだが、作品そのものはとても(美的に)魅力があるのだが、暗喩的な力が強くなってきて、そこから意味を読み取ることを意識させられるような仕様が明確に立ち上がってくる。そして、それらはやがて「大ガラス」に統合されていく。「大ガラス」は、会場にはもちろん複製が展示されているのだが、なるほど、もし実際に目にしたらこういう感じなのかと、境内の奥にあるご本尊を前にしたような思いでガラスの前に立つ。