上野の国立西洋美術館で「キュビズム展 美の革命」を観る。セザンヌの描く空、あるいはコローやシスレーやモネの描く空を見ていると、もし彼らが昨日とか今日、ここ日本の東京の晴天の冬空の、青色と紅葉の黄色やオレンジ色とがはげしくぶつかりあっているのを見たら、何と思うだろうかと想像した。もちろん当時のフランスにも、今日の空と紅葉みたいな日はあっただろうし、そんな絵も幾多あるだろうけど、しかしそれはそれとして、彼らの空と、今ここで見上げることのできる空との違いを思う。

キュビズムと題して1907年から1920年半ばくらいまでの時間に焦点をあてたテーマ構成の、ややストイックで地味ながらも興味深い展覧会だった。目を見張るような作品がそれほどたくさんあるわけではないのだけど、フランスにおけるキュビズム受容と紆余曲折な過程がわかりやすく示されていて面白かった。

1907年以降、ピカソとブラックを中心とした分析的キュビズムの探求が進むかたわらで、それにほぼ追従するかのように、いわゆるサロン系画家によるキュビズムの仕事が、1910年にはすでに活発だったというのをはじめて知った。当時のキュビズムが、前衛表現がまねくわかりやすい反応としての揶揄や反発の対象になったというのはその通りなのだろうが、キュビズムを選んだ画家にとっても、彼ら一人一人にとってのキュビズムは千差万別な解釈で用いられているので、結果的に作品の出来不出来には大いにばらつきがあって、しかしそのことがかえって当時の先行きの見えなさ、キュビズムという胚芽がどのような成長に至るのかの不透明さを暗示しているようでもあった。(そしてその先行きの見えなさは、今もまだ解消されきってはいない、とも言えるだろう。)

またマルセル・デュシャン、レイモン・デュシャン = ヴィヨン、ジャック・ヴィヨンのデュシャン三兄弟や、ブランクーシモディリアーニらの仕事に見られる近似性なども面白かったし、キュビズムが本当に巨大なムーブメントとしてフランスに降り注ぎ誰もがその波に揉まれたのだというのを、あらためて感じた。

その後第一次世界大戦勃発によって、フランスにおけるキュビズム自体が、ドイツ排斥運動や世論のあからさまな象徴になっていく、その絶望的な過程、何をやろうが何を書こうが一寸先は闇というか、人は見たいものを見てそれ以外は見ず、一夜明けたらだれもが排斥対象へと変わりうる。身を守るためには何も言わず何も聞かず旗色を不鮮明でやってくしかない…。そのことにあらためて失望を感ずる。今も昔も問題は変わらない。当時の空と今の空の、変わったようで変わらないようなものか。