マティス展

東京都美術館マティス展を観る。二部屋目の展示室に集められた1910年代の諸作品(コリウールのフランス窓、窓辺のヴァイオリン奏者、金魚鉢のある室内、オーギュスト・ペルラン…など)が、とりわけ素晴らしく感じられる。この時代にだけ特有な、研ぎ澄まされた感がすごい。さらに興味深いのは、次の展示室以降に並ぶ作品群が、先鋭度において10年代よりもややレイドバックするかのような様相を呈する点だ。これはピカソの10年代と20年代以降の変遷を彷彿させる。またはキュビズムがもっとも先鋭的だった瞬間とやや様式化する瞬間の流れを思わせる。マティスはキュビストではないが、作品の形式は違っていても、当時の作品群としてのひとまとまりから醸し出されるものとして、何かが似ている。それは画家を取り巻いていた当時の環境とか空気とかによるものだろうか。

それにしても、やはり作品の実物を観るのは面白い。あたりまえだけど、何しろ大きさが違う。そしてその場の出来事感というか即物感というか、ある出来事性の迫力が違う。色彩も形態も、すべてが出来事の重みをもって届く感じだ。

この取り留めの無さ、確定しない感じはどういうことか。室内の植物の枝が、窓外から見える路面の線に繋がっていくように見えるとき、あるいはヴァイオリンの弾く人物らしき形の一部が、窓枠や壁の縦線に混然となって、位置や量感が定まらないまま、おそろしく不安定な宙吊りのままのように見えるとき、いわば通常の意味での満足感や達成感は、この作品から受け取ることが出来ないのを確認できるようで、それがいつまでも確かな頼もしさとして、それを観続けることの意志を下支えしてくれるのだ。