教育

男性がはじめて女性の裸を知る機会は、ほとんどの場合、母親の裸を見てだろう。ほとんどの男は、女性の裸身の原初イメージを母親によって得るのだと思う。

もちろん母親の裸体を一度も見たことがない、あるいは記憶に留めないまま生きる男もいるだろう。たとえば亡父は、自分を生んでからほどなくして亡くなった母親の裸身を記憶にとどめてはいなかったはずで、裸身はおろか、その場の記憶、香り、手触り、息遣い、声、身体的予感のいっさいを記憶にとどめることなく、残された小さな数枚の肖像写真だけが、彼にとっての母親の全イメージだったはずだ。それでも、幼少時身内に近い女性とのかかわりにおいて、ときにはそのような女性たちの裸身を見たこともあったのかもしれない。たいていの場合、男は幼少時に一度ならず女性の裸身を見る機会があるものだろう。    

それでは母親でもなく身内でもない、まったく他人である女性の裸身を、男性はいつ見るのか?まだ子供の時代が継続しているなかで、たとえば公衆浴場の女湯とか、夏の海辺とか、母親や身内に連れ込まれて居合わせた狭い女性用更衣室とかだろうか。いずれにせよまだ子供の頃の、性的な分別がつかぬ年頃と思われている頃のある稀な機会に母親以外の女性の裸身を見るのだろうか。

女性の裸身を端的に言葉で説明するならば、ふたつの乳房と股間に生えた陰毛がかたちづくる三角の印、とでも言えるだろうか。はじめて母親ではない女性の裸身を偶然見たとき---それは遊びにいった友人宅で何らかの理由で風呂のドアがあけられたとき、たまたま入浴後に体を拭いていた友人母の堂々たる裸身が目の前にあらわれたときで、そのとき友人の母は頭と顔をすっぽりとバスタオルにくるんでごしごしと水気を拭き取っていたので、頭部を覆い隠したまま全身をこちらに晒した、まさに堂々たるトルソ彫刻そのままでそこに立っていたのだが…--それを見た自分のまず最初の驚きが、その姿はもちろん些細な違いはあるにせよ大まかには自分の母親のそれとほぼまったく同一であるということで、誰であっても母親とはあるいは女とはだれもがあのような裸身をもつ者なのかという、それをまるで教育されたかのような新鮮な驚きがあったのを今でもうっすらと記憶している。

すべての女性が母親と同じ裸身を有している、このことを男性は幼少期のどこかで、ある驚きとともに受容するだろう。であるならばこの先どのような女性と出会ったとしても、その裸身とは、つまりあれなのだ。あの点のような目と嘴のような口をもつ、あの顔だとわかるのだ。

マグリットの作品に、女性の顔が女性の裸体になってる有名な絵がある。顔が裸体になっているというか、裸体が長い髪を生やしているというのか、ようするにふたつの乳房が目を、股間の陰毛部位が口をあらわしている、そういう「顔」の絵である。子供でも思いつくようなある意味幼稚な発想のイメージが、そのまま作品になっているとも言える。

しかし子供の発想、子供の思いつきというのは、つまりそれ以上どうにも動かしがたい、鉄壁のイメージ固定なわけであって、女性の裸身にこれ以上の深みもバリエーションも持たせることは難しいという事実を、これが宣告しているとも言えるのだろう。

これから長い時間をかけて、人の生きる時間をゼロから経験していこうとする子供が、すでにあの女性の裸身の、ふたつの乳房で出来た目と、股間の陰毛部位による口の「顔」を知っているというのは、けっこうすごいことだと思う。いわば最大最奥にあるはずの謎が、はじめからネタバレしているというか、タマネギの皮を剥いた果てにあるものをすでに知っているというか、肉体はすべて同質であることがわかっているということだ。だからこそ、そこに余計な幻想が生まれないのか、いや、だからこそとてつもなくわけのわからないお化けのような幻想が生み出されるのか。

教育…。性教育ではなくて、もっと根源的に、方向づけとしての、型枠としての。というか、それこそが性教育か。