遺失


目が覚めた。飲み過ぎていた。ああ、まただ、と思って、少し自己嫌悪をおぼえる。上体を起こしたとき、なぜかふと、また昨夜の気がかりらしきものが、よみがえってきた。ふわっとした、不安とも何とも言えないような、心の揺らぎである。


起き上がり、自室に行った。昨日の荷物を確認した。脱いだ服は、椅子の背などに適当に引っ掛けてある。それはいいけど、鞄だ。中を調べる。ごそごそと、手を入れて、奥までまさぐる。あ、、と思う。何かの間違いではないかと思う。寝起きで頭が覚醒してないから、あるいは部屋が暗くて鞄の中もよく見えないから、しかし、いくら探っても、アレがない。アレとは、そう。それです。財布です。


部屋の中を見渡し、コートのポケットを見て、着ていたものも全部見て、昨日帰ってから風呂入ったから脱衣所も見た。しかし、無い。無いのが正解という気がした。おそらく、店に置いてきたのだ。会計して、そのままテーブルの上だ。


店に電話するが、出ない。夜から営業だとすると、何時になったら電話に出るか。まあ午後をかなり過ぎないとダメだろう。


それにしても、やってしまったなあ、今回は、なかなか凄い。財布を落としたことは、自分は人と較べても、おそらくかなり、経験が多くて、回数で言ったらこれまで何回の実績になるのか、数えたことはないが、このブログで検索したら前回落としたのは2013年、そのとき十年ぶり二回目と記載があるので、これにて過去十五年で三回目となった。スマホも含めれば更にたくさん(4からiPhoneだが、5以外すべて失くすか壊してる)。着実なペースで回数を積み重ねていることに我ながら驚かされる。


とはいえ、今回はさすがにキツイ。現金が、金額的に相当の迫力なところが厳しい。一万円や二万円ではないのだ。受け取ったばかりの、ちょっと多めな額がごっそり入っていたのだ。ああーー、もうやだ、あたし、ほんとうにバカだ、押し寄せる波のような後悔と嘆きに苛まれる。でも仕方が無い、受け入れよう、今この悲劇を丸ごと私のもとして抱きかかえようと思う。そもそも、お金だけじゃないのだ、カードも保険証も免許証もだ。キャッシュカードは別にしてあった。このへんは前回を踏まえた対策の効果だ、いや、でも全然良くない、そんな成果、何も嬉しくない。焼け石に水きわまりない。それにしても、あーー、、あーー、この、何分か毎に訪れる暗い波のような絶望感と暗澹たる思い。しばらくすると、ちょっと忘れて、でももう少し経つと、再び思い出して、ああーー、っとなる。今日はその永遠にくり返す暗黒のリフレインだ。せっかくの休日が台無しだ。でもすべて自分のせいだ。今まさに、罪の報いを受けている真っ最中なのだ。だから受容するのだ。ただひたすら、受容するのだ。この痛みと苦しみに対してもっと身体をひらくのだ。


などと思いながら、しかし予約を入れてあったので美容院に行って髪を切る。努めて冷静に、いつもどおり振舞う。帰りに交番で紛失届けを出す。二人の警察官はどちらも若い女性。まるで冗談で警察官の恰好をしているようにしか見えないが、顔は不機嫌そうというか、せめてそういう表情をしてないと警察官的存在として成立しない感じだ。でも、これこそ治安品質、世の中の安全さの証明とも言えるか。なかには悪い人もいるだろうけど、たくさんはいないはずだ。きっと。


帰宅後、引き続き待機の責め苦を味わいつつ、たしか四時半くらいに、再度店に電話した。「あのー、昨日の夜、お店にうかがいまして、じつは財布を落としまして…。」と言ったら、「はいはいはい!お預かりしてますよー!」の返事。ハレルヤー!だった。すぐ家を出て湯島まで向かい、開店直前のお店に伺った。この店、何度となく来ており店の人達もお互いにだいたい顔がわかるのだが、それが功を奏したところも、あるのか無いのか、、いずれにせよ平身低頭の体で、無事に財布を受取る。


ちなみに今日一日、頭の中でずーっと考えていた、考えないではいられなかった事として、会計のとき、その場に財布を置いたなら、店員さんが見つけてくれる可能性は高いが、だったらなぜ、気付いた店員さんがすぐに店を出て僕を追いかけなかったのか、気付くのが遅れたのか、あるいは僕の姿が既に見えなくなっていたのか、もしくは、財布は店員ではなく近くにいた客の手に渡ってしまったのか、、だとしたら、それでもう一巻の終わりだ、などと果てしなく思い巡らせていた。しかし、よくよく考えてみて、僕はカウンターにいて、その僕の背中を囲むように、周囲には二人客が二組いたのだ。彼らのうち、誰かがカウンターから、あるいは下に落ちた床から、僕の財布を拾うとして、それが他の客からまったく気付かれないように、それを自分の鞄やふところにしまうことができるだろうか、店はかなり狭く、客同士の距離も近くて、営業中は客と客の間を店員がすり抜けるような具合に通っていくのだ。だとすれば、たとえ客が財布を拾ったとしても、そのまま誰にも気付かれずにくすねるのは困難ではないか、だとするなら、いずれにせよ財布はしかるべき保管先へ行き着くかもしれない。その可能性も、けして少なくないのではないかと。


でもそんなの、自分にとってあまりにも「都合が良くて」「楽観的で」「甘い」考えに思えてしまって、というか妙なことに、逆にそう思いたくなってしまって、いざ現実の判定が下るときに、必要以上にショックを受けたくなくて、そういう甘い夢想を極力頭の片隅から追いやろうとしている自分がいた。電話する直前まで「どうせ無いのだ、絶対無いのだ、あれはもう全て無くなってしまったのだ」と自分に言い聞かせていた感じに近い。つまり、それくらい、自分は臆病者なのだということ。


でも、まるで受験生が試験の結果をじっと待つような、あるいは囚人が判決の結果をじっと待つような、こういう経験を久しぶりにしたわけだが、もう懲り懲りだ。以後気をつける。もう絶対に、こういうことは繰り返さない、と、今は本気でそう思うのであるが…。


ちなみに会計して、財布はカウンターの上にぽーんと置きっぱなしで、それを店員さんがすぐに見つけて、あ!っと思って、すぐに店の外まで追いかけたのだが、すでに僕の姿はどこにも見えなくなっていたのだそうです。


本当にありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。