帰宅途中、銀座に寄って何軒か靴屋をさまよう。これから見る中で気になるものがなければ、あるいは諸々あきらめがつくのであれば、先日横浜で見かけたアレを買ってしまおう、それでこの靴にまつわる迷いの季節を終えてしまおうと心に決めて最終確認のつもりで徘徊する。しかし、結果的にはすべてが振り出しに戻った、カード全取替えの、行司差違えで取り直しの、オールゼロクリアな気分をかかえて、手ぶらで銀座を後にすることに。心にストックしておいたはずの横浜のブツを買う気まで失せてしまった。もはや何を履くべきか、当初どんな靴を要望していたのか、その本来的・根本的な自分のレベルにおいて目的を見失ってしまった。「それを履きたい」という欲望そのものがロストしてしまった。


アンデルセン「赤い靴」に出てくる孤児の少女。彼女は「それを履きたい」という欲望を止めることができなかった人。自身の道徳・モラル・礼節・倫理に背き、信頼を裏切って、神の存在を忘れて、その赤い靴を手にして、それを履いて永遠に続くかのような享楽の日々を送る。そして靴の呪いに蝕まれ、やがて両足を切断して義足の生活になってからも、切り離されたその靴が切り離された自らの脚とともに街の一角で依然として揺ら揺らと踊り明かしているのを目の当たりにする。彼女は恐怖に戦き、震え、やがて自分の罪を悟り、神に許しを請い、そして少女は静かに天に召されていく。


…この物語に流れる享楽の残り香、その魅惑、思わず口元を歪めうずくまりたくなるほどの絢爛で隠微で濃厚な快楽の香りは如何ほどのものか。その靴が、どれだけうつくしくなまめかしく魅力的だったのか、その少女が毎夜どれほど恍惚とした身体の震えを体験したことか、揮発して目を刺す程の熟成を経た古酒のような、ほとんど罪そのものにまで昇華された、生命と引換えにして葬られた甘美。今やおそらく、思い浮かべることすらできない。


…まあ、それはともかく、思えば二十歳を過ぎた頃から今まで、なぜか僕はずっとチャッカブーツにばかり固執してきた。今まで何足の靴を買ったかわからないが、もしかすると半数以上がチャッカブーツではないかと思う。季節も何も関係なくひたすら踝までを覆いたい人である。先日壊れたのもそれだし、過去を思い出すときに浮かんでくるかつての靴たちも大体がそのかたちだ。