アレルギー

昔の病気と今の病気は違う。医学の進歩ということもあるだろうが、そもそも昔は無かった病気が今はたくさんある。アレルギーというのは、昔もあったのかもしれないが、それでもこれぞ現代ならではの病気であろう。神経が誤作動を起こすというのは、神経も昔と比べたらけた違いの情報処理が必要であるがゆえの、昨今誰しも既知の不具合であろうし、成人病一般だって還元すれば必要な栄養素と摂取量を過剰なインプットによって判断し切れなくなった結果として発症するものではないか。あまりにも乱暴に単純化し過ぎた話であることは承知の上だが、ことほどさように今は身体維持のための自身への観測判断が難しい時代だとはいえるのだろう。

男性の性的欲望がアダルトメディア産業によって統治され方向づけられていくように、今後は食欲も新たなメディアによってコントロールしてもらえるのではないか。と今思いついたことを書いているのだが、それでふと気づくのは、性的欲望もそれ以外の付加価値と元々は切り離せないもので、様々なオブジェクトの総合体として文化制度があって、その一環に性的な領域もあったはずなのに、今やそれはそれだけで独立したものとなった。だから食べるということも、今後ますますそれ以外の意味や文化概念から切り離されていって、単に食べることに近づく、しかしその味わいのレパートリーはとてつもないバリエーションで準備される、のかもしれないということだ。まあすでにそうなっているとも言えるし、この後ますます、あの店でなければ体験できない味というのは減少していき、時間と場とコンテンツを併せた複合的な体験の必然性がますます希薄化して。

と、ここまで書いてまた気づくのは、なぜ性的欲望の処理過程におけるアレルギーが存在しないのか、ということだ。ある対象に欲望を向かわせている最中、突如として神経系がアラートを発して、脈拍と血圧を乱降下させる、、みたいな症例はないのか、その悦楽だけを単体で切り離して味わっているがゆえの、罰としての神経バグ…。あったら怖い。じつは、俺は○○アレルギーだったことがやっとわかった、今までずっと大好きだったのにもう楽しめないことになった、寝耳に水だよ、信じられない。もうこれからは○○のことを思い浮かべるだけで、最悪生命の危険もありうるんだ、…みたいなことは、現代のこの世界においてとりあえずはない、と思っているのだが、実際はどうなのか。