Amazon Primeで、マキノ雅弘「昭和残侠伝 死んで貰います」(1970年)を観る。

高倉健に、これまでいっさい興味なかった。何かつまらなそうな映画にばかり出てる人…という印象を子供の頃から持っていた。だから自分は本作を見て、はじめて高倉健という俳優を知ったも同然である。

冒頭の、ほとんど浮浪者同然の姿で賭場に座して相手を見る表情から、最後の殴り込みで刃物が光りつつ交差し合う狭い空間を、あの目付きで、ぎょろッと見回すときの表情まで、これはもうこの俳優の存在が世界のすべてで、この俳優が存在することで周囲に彼のための世界が広がっているかのような、そのくらい強力な磁場を見た気がした。

勇敢とか、男気とか、人間味とか、高倉健という俳優はおそらく、感情移入の受け皿のようでいてそうではなくて、もっと一元的な、不気味で意図不明な何かという感じで、たとえば飢餓状態で人里に下りてきた動物のような、欲動そのもの、暴力そのものと考えた方が近くないか。暴力という一塊の質感と速度のあらわれが、たとえばあれだと思った方がしっくり来ないか。

不服そうでもあり、もの言いたげでもあり、泣き顔のようでもあり、寂しげでもあり、そういうのを小器用に隠す術を、いまだに知ってないようでもある。そしてドスを振り回し、迫り来る相手に躊躇なく切り付け、障子やらそこいらに血飛沫をまき散らせて、唐獅子牡丹の厚い背中に汗をぎらつかせる。

脇を固める池部良長門裕之が素晴らしい。彼ら単体がまるで調味料のように高倉健と合わさって、ペアとして調和する。それが一々素晴らしい。