靴を脱ぐ


美術作品で、靴を脱いで作品内に入って体験するとか、ああいった鑑賞形式が若干苦手である。なぜなら靴を脱ぐのが面倒くさいからだ。僕は靴は、紐靴しか所有してないのだ。ただし鑑賞方法がその作品の質に関わるのだから、その作品を体験するために必要な鑑賞方法が規定されることは尊重するし、そういう作品を否定したり批判する気は一切無い。現にそういった作品でとても好きなものも過去にたくさんあった。靴を脱ぐのは嫌だけど、靴を脱いでこのスペース内で自由にご鑑賞下さい的なやつは、わりと好きだ。座ったり寝そべったりできるタイプのやつ。じーっと体育座りしてる人とか、完全に居眠りしてる人もいるような場。そういう場で寝そべったりしていることの身体的・気分的な新鮮さというのは嫌いではない。


でも靴を脱ぐなんて面倒くさい、とは思うのである。というか、それを知って「え?脱ぐの?」と思う瞬間がいや。じつは面倒くさいだけじゃなくて、観る側のこちらにそこまでさせるのか…と思ってしまうのだ。こういうことの極端な事例としては、演劇で演者が観客に話しかけるような形式とか、観客参加型とか、オノ・ヨーコ的なやつとか、そういうことになるのだろうか。作品鑑賞に際して靴を脱いでる時点で、その手の形式に少し入り込んでると思うのだ。


映画館に行って暗闇の中で椅子に座るとか、掛かってる絵の前に立つとか、柵に寄りかかってステージの演奏を聴くとか、そういう範囲内で可能なことだけにしていただきたいと、どうもそのように思っているらしいのだ。


もちろん、靴を脱いで下駄箱に預けさせて鍵を渡すチェーン系列に多い居酒屋も嫌いだが、それはまた別の話。


柴崎友香ニューオーリンズの幽霊たち」(「公園へ行かないか? 火曜日に」所収)では、ワシントン州第二次世界大戦をテーマにした博物館に主人公が訪れて、そこですごいアトラクション仕立ての展示物を体験する。入口で当時の従軍兵士の名前が掲示され、その人のプロフィールや戦場での経緯を参照することができるとか、潜水艦の操舵室を模した内部に入ってあたかも自分が潜水艦の乗務員であるかのように潜望鏡で敵艦の様子を覗いたりできる。(自身が乗り込んでいる当の潜水艦が最終的に沈没してしまうことで、そのプログラムは終了する。)


柴崎作品の柴崎的な主人公は、そのような形式の展示に対してとくに批判も肯定も表明せず、やや戸惑いながらも、それを素直に受けいれて体験しているのだが、読んでるこちらとしては、これは、こういう形式では、ちょっと勘弁してほしいなあと思う。この作品のその箇所を読んだら、おそらくそう思う人は、多いのではないかと思う。


でもこれは博物館として「疑似体験」の「臨場感」を高めるために作られた装置なのだろう。(別料金を払って体験できるオプションのようだ。)そもそも博物館というのは、そういう場所なのだろうか?「疑似体験」の「臨場感」を高める必要がある場所なのだろうか…と考えてみて…そういう場所でないとは、断言できないかもしれない…と思った。むしろ博物館というのは、突き詰めれば、疑似体験するための場所なのかもしれない。展示物をより理解できるように、展示方法を改善すること。アーカイブ化とか研究も大事だが、利用者とのインターフェイスを向上させることも、博物館の使命の一つではあるだろうから、少なくともこれからの博物館は、多かれ少なかれ、そのようになっていくのかもしれない…とも思った。


その体験が貴重ではないとか、嘘臭いとか、つまらなそうとか、そういう事を言いたいわけではない。でもそれはそれとして「いや、そこまではしたくないのよ」といった気分というものがある。博物館のアトラクション化と、作品鑑賞時の靴脱ぎは、ぜんぜん違う話ではあるのだが、そこは、似ていませんかと思う。